罪と苦、マズロー欲求説の善悪仕分けと宗教的処理

 キリスト教は「罪」に、仏教は「苦」に、それぞれ人間の暗黒面にフォーカスしている。その根本的なところは、人間の欲なのだ。

 欲求が満たされないと、不安や不満が生じ、精神の平衡を失う危機に人間が直面する。その危機に根ざすのが宗教だ。言い換えれば、人間に欲求がなければ、宗教はその第一義的な存在理由を失う。

 宗教を考察するうえで、私はむしろ僧侶などの聖職者のほうに目を向けたくなる。つまり、いわゆる神のメッセンジャーの機能に対する考察である。

 聖職者たちが自身も生身の人間である以上、欲を持つのであろうか。そもそもこれは聞いていけないことなのだろうか。私は欲があっていいと思う。人間だから、健全な欲があったほうがいい。

 マズローの欲求説では、人間の欲求を低次から高次へと5段階に分けて説明している――。1.生理的欲求、2.安全欲求、3.社会的欲求、4.尊厳欲求(承認欲求)、5.自己実現欲求と。人間は1つの欲求が満たされると、次の高次の欲求を求めるようになる。

 仮に、世の中に理想社会が実現し、ほとんどの人間が第5段階の「自己実現欲求」が見事に満たされた場合、おそらく宗教が消えるまでいかなくとも、大半の聖職者が職を失うことになる。

 それ故に、欲求そのものを「罪」や「苦」と否定的に捉える聖職者たちは実は、人間の欲求の存在によって糧を得ているわけだ。医師が人間の身体的な病気を治すというならば、聖職者は人間の精神的な病気を治す。そういう意味で、病気を治す医師なら、病気の存在によって糧を得ているのではないかと。

 いやいや、本質的な違いを看過できない。身体的な病気は100%悪いものだ。正常な人間はなるべく健康に暮らしたいから、身体的な病気を医師に取り除いてもらうわけだ。

 だが、欲求というのは精神的な病気といえるのか。答えは否だ。少なくとも全般的に100%悪い病気ではないはずだ。健全な欲求が人類社会の進化や発展の原動力にもなっているのではないか。むしろその健全な欲求は、神聖性さえもってしまうほどだ。

 欲求そのものの問題ではない。欲求の持ち方と取り扱い方の問題である。さて、アダムとイヴはエデンの園にある果実を食べてしまったのも欲だといえば、それが欲が悪いのか、欲のコントロールが悪いのか、知りたいものだ。

 その文脈でいけば、欲求の分類をまずしなくてはならなくなる。マズローの欲求5段階説に示された各段階の欲求にさらに、善悪区分という動態的な仕分け作業をかける必要が生じる。そこで選別された善の欲求をそのまま温存し、悪の欲求のみを宗教によって処理すると。

 ここまで精緻な作業ができるのだろうか。がん細胞と正常な細胞を分別してがん細胞だけを殺すという医学的な挑戦よりはるかに難しいだろう。

 このような命題はそもそも宗教には存在しないだろうし、存在し得ないだろう。なぜならば、現実的に科学や哲学で説明できない、解決できない問題を片付けているのが神学、宗教であるからだ。これが宗教の第二義的な存在意義だ。

 というのが、私の「宗教観」である。私は現実主義者であって、神を論ずる立場にはない。だが、聖職者という職業について、現実社会におけるその存在と機能・運営メカニズムを考察してみたいという好奇心はある。もちろん、神を冒とくするつもりはまったくないことを、最後に信仰者各位に申し上げておく。