臆病の妥協と姑息な平和、弱者正義の先は社会の弱体化

 「悪とは何か?弱さから生じるすべてのものである」(ニーチェ)

 私自身の人生も仕事もこれを指南にやってきた。だが、いまの日本では、こういうことを堂々と人前で言うと、やはり異端視されることも多々あろう。ルサンチマン、弱者同情が社会の基本的価値観になっているからだ。

 しかし、「弱さ」というのは、何も弱者の専売特許ではない。非弱者ないし強者にも、「弱さ」が持たれ得るものだ。

 「私にはできない」「どうせ・・・」、さらに自分に不幸をもたらす原因や責任を他者になすりつけるほど弱がることはない。そういった弱さから生まれるものは、自分に変わらぬ不幸という「悪」にほかならない。弱さから生じるすべてのものが悪であって、その悪の第一被害者はむしろ自分本人なのだ。まさに自業自得。

 さらに、弱者でもないのに、自ら進んで能動的に「弱者」になろうとする人間がいまの日本社会に増え続けている。単なる不作為の塊や他力本願の怠惰者が同情や正義を勝ち取るうえで、弱者身分ほど都合の良いものはない。それ故に、自認弱者、似非弱者、偽弱者、それに弱者愛を唱える弱者正義評論家(恐らく本人も前記のいずれかに該当する)が氾濫している。

 「強者」と名乗るだけで後ろめたさを感じ、それよりも、「私が弱者だ」となったほうが正義の大義名分を勝ち取れる。このような風潮が漂う社会それ自体が弱体化し、衰退する一途をたどる以外道は皆無だ。

 ニーチェはさらにいう――。

 「われわれは、『近代』という病気にかかっている。先行きが見えなくて、皆、ただ溜息ばかりついている。たとえば、いま、いくら世の中が平和だといっても、それはやはり姑息な平和だと言わざるを得ない。そのほとんどが、臆病な妥協の産物なのである」

 ニーチェの言葉、100年以上経っても今日の世界に通用する。

 付言しておくが、本文の記述は私の思想信条であって、異見もいろいろあるとは思うが、同調を求めるつもりもなければ、議論も不要とする。