貧困と仕事、健康で文化的な最低限生活と再分配

 ヤンゴン在住の友人A氏のフェイスブック投稿。とても感銘を受けたので、転載する。

 「『貧困=不幸』ではない。

 最近日本のニュースでよく見る『貧困』。小生から言わせれば、『ふざけるな』の一言。収入の間尺に合った生活をすれば良いだけの話だ。貧困だと騒ぎ立てる輩は限りない欲を持ち、その欲求が満たされないと他人に(主に政府)責任移転する。今の日本で働き口がない事は有り得ない、現に産業界は人手不足で外国人が必要だと言っている。

 ミャンマーに住む小生、清貧で心豊かに暮らしているミャンマー人を沢山見ている。この様な人々は日本人から見れば貧しい生活者、つまり貧困者であろう。収入が少なくても、収入の3割をお布施し、贅沢品を買うならお布施した方が良いと言うこの人たちは心豊かに暮らし、自分たちは貧困者だと思ったこともなく、現状に満足している。この様な生活習慣は人生を心豊かに生きる一つの方法としてミャンマーに定着している」

 貧困とは、収入が不足し、あるいは収入がないということだ。収入がなければ、働いて稼がなくてはならない。そこで働き口がないと、どうしようもない。いわゆる不本意な貧困になる。

 日本はそういう国であろうか。A氏も指摘しているように一部の産業界では人手不足すら見られている。求人も出ている。政府が労働力の補充で移民政策をも検討しているという。

 そのような職は自分に合わない。肉体労働やきつい仕事をやりたくない。憲法25条では、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という生存権の条文がある。健康で文化的ではないから、その職に付きたくないというのだろうか。

 そこまで言われたら、もし本当にそうだったら、私も納得する。国民の生存権なのだから、国民ではない外国人に健康で文化的ではない労働を押し付けるには、十分な法律根拠がある。

 もしある日、「すべての国民」に「健康で文化的な最低限度の生活」に供するリソースを日本が持たなくなった場合、どうするのか。残される道とは、富の「外的再分配」か「内的再分配」しかない。

 「外的再分配」とは、戦争による他国に対する略奪。それは、憲法9条等によって禁じられているので、通用しない。「内的再分配」は、日本国内の共産化。富裕層からもっと多くの富を巻き上げて貧困者に配分すると。

 日本共産党の志位委員長が一昨日9月20日に行った第6回中央委員会総会の幹部会報告で、中国の対外勢力拡張を非難し、中国共産党が変質したとして「覇権主義的な振る舞いだ」と猛批判した。

 これで分かったことは、日本共産党は、徹頭徹尾の「内的再分配」志向派であって、貧困ビジネスのビッグボスであることだ。