移住3年雑想、万知の基盤「識の術」を求める旅は第一歩

 3年前の今日、2013年9月26日、13年余りの中国生活に終止符が打たれた。虹橋空港発の全日空1260便で、家族と愛犬2匹とともに上海を発った(日本に立ち寄ってのマレーシア移住)。

 中国事業が絶好調のピークだった。が、上海を離れるのはさほど大きな決心を要しなかった。諸般の事象を根拠に自分なりの論理的な結論に達し、それに沿って粛々と行動に移すだけであった。

 論理的な決断とはいえ、葛藤がまったくないといったら嘘になる。感傷的心情がいかにも文学的なものと化し、旧居に別れを告げる際の寂しさが一枚の写真に凝縮されている――出発を待つ朝。

103318_2

 3年間、中国に「通い」という形で仕事を続けながらも、どっぷり東南アジアに浸かって来た。赤道直下のトロピカルな南国に暮らしていると、コントラスト的に感じられる中国や日本という北東アジアの陰気さに時々アレルギーまで引き起こすほど、体質が変わったのである。

 イスラム国家での生活に不安がまったくなかったわけではない。それも逆に、ムスリムに接しながらイスラム教の勉強に取り組む契機になった。イスラム教の勉強をすると、ではキリスト教との対立の根源とは何かといった命題が次々と生まれた。最終的に信仰や宗教のこと、哲学との関連性にまで真を探求するアドベンチャーの旅の切符を手に入れた。

 1つの真が見つかると、2つや3つの新たな問いが生まれ、いたちごっこの旅である。そしてまもなく見つかった真が新たな真によって否定されることもしばしば。

 いまの超・情報化時代、知識更新の速度には、人間はとても追いつかない。せっかく得た知識といっても、あっという間に新しい知識に上書きされてしまう。きりがない。

 それ故に、「知識」の「知」よりも「識」に重きを置く。

 「識」は、サンスクリット語に源を求め、仏教用語の「了別」にたどりつく。認識対象を区別して知覚する精神作用を言う。ただ仏教的観点からすれば、観法によるより直接的な認識である般若が得られることで成仏すると、方向付けられる。

 私は「鑑法」も大事だが、分析的に認識する「識」との一体化が欠かせないと考えている。つまり西洋流のロジカルシンキングの浸潤である。そして、成仏という特定の目的やビジョンを持たないことだ。

 万物ならぬ万知の基盤は、やはり人間の学び方、思考回路といった基礎体力にある。これをひたすら身につけて行くことだ。学び方を学ぶことだ。哲学や歴史、芸術といったいわゆる古典系の学問に、数え切れない栄養素が凝縮されている。

 この3年間、探求の旅は辛うじてようやく第一歩を踏み出したような気がする。そして、このような基礎体力が日常の経営コンサルの仕事にもじわじわと影響を与え始めたことを実感している。