物欲と信仰、ハリラヤの日に思う中国経済発展の裏

 7月28日(月)、今日はハリラヤ。断食月ラマダン明けを祝うムスリム(イスラム教徒)の最大の祭りである。

 日本人的な感覚でいうと、お正月とお盆が一遍に来たと言ったほうが分かりやすいだろう。朝から隣の家から御馳走の良い香り(カレーの香料?)がぷんぷん漂ってくる。一家団欒の大宴会の下ごしらえが着々と進められている。

 故郷のある人たちは一同にカンポン(田舎)に集まるし、また、華人やインド系の人々もマレー系のムスリムたちと一緒に祝う光景も珍しくない。多民族国家マレーシアならではの微笑ましいシーンである。

 マレーシアはイスラム教国といっても、25%の華人という「少数民族」の存在を決して無視せず、ちゃんと、「チャイニーズ・ニューイヤ」も祝日になっているし、多民族国家であるがゆえに年に何度も大きな祝祭日があって、大変楽しい。

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 中国では、ハリラヤのことを「開祭節」というが、これを知っている漢人はどのくらいいるのだろうか。正直中国在住時代の私自身もほとんど無関心だった。中国という国はやはり、漢民族という価値観を中心に国家運営が行われている。少数民族といえば、人民元紙幣の裏面の少数民族語表示(モンゴルやチベット、ウイグル語?)や、あと全人代の時期にだけ、カラフルな民族衣装に身を包む代表たちが晴れ舞台に上がり、民族融和を演出するという奇妙な光景しか頭に浮かばない。ムスリムを含む少数民族が本当に何を考えているのか、何を感じているのか、彼たちの喜怒哀楽を知るきっかけというのは、中国本土にいる限り極めて少ない。

 こんな私だが、中国からマレーシアに移住してから、宗教や信仰に対し強く関心を持つようになり、いまはイスラム教関係の書物を入手し、日々勉強しているところだ。

 近所のモスクから響き渡るコーランに耳を澄ませていると、その詩的韻律に酔い痴れ、そして神々しさを感じずにいられなくなり、いつの間にか涙が溢れてくる。

 神に対する敬畏。―-中国で失われたものをここマレーシアの地で私が見つけたのである。これは宗教の種類を超えた次元で、もっともっと広義的に捉える信仰や心の拠所のことであって、濃厚な宗教の説や神学ぬきに、たとえ経済発展が相対的、絶対的正義化された俗世の中でも、人の心の一角に生きている蝋燭の光のようなものである。この小さな神聖の光を失った経済的生物はいかに哀れか。ある意味で、人間の物欲、貪欲に金銭を貪る本能という醜悪な側面が、国家政策に濫用、悪用された結果でもあるように思えてならない。