無責任国家ニッポン、「社会的距離」はなぜ語られないのか?

 「クラスター」やら「ロックダウン」やら「オーバーシュート」やら、横文字の難解さが問題になるなか、諸外国ではもほや誰もが知っている「ソーシャルディスタンス」という用語だけはなぜか、日本でほとんど語られていない。日本語に訳すと、「社会的距離」。人と人の間に置くべき距離ということだ。

 「密閉、密集、密接」を避けるという日本の「三密」政策は、非常に曖昧なものだ。これらを「社会的距離」という一言で定量化できてしまう。なのに、これだけ便利な概念はなぜいままで用いられてこなかったのか。おそらく日本の為政者の思惑が隠されていたのではないかと推測する。

 定量化はできない。定量化をしたくない。いつまでも曖昧さで通した方が都合がいいからだ。社会的距離は1.5~2メートルが常識であることから、日本社会でそれを実施すれば、イベントどころか、通勤電車もオフィスワークも飲み屋もすべてアウトだ。定量化すなわち社会活動の大幅制限。少なくとも夜の銀座や六本木をまず遮断しなくてはならない。結局その決断をしたくないのが本音であろう。

 「不要不急の外出を避けるよう呼び掛ける」。「不要不急」そのものが曖昧さの代表格であり、「呼び掛け」とは、実に為政者に都合がいい。ボールを市民に投げる。「呼び掛けたところ、市民が協力しないから、責任は市民にある」という逃げ道が用意されているからだ。上辺では市民の良識や自律性に委ねられているようにも見えるが、これほど、無責任な国家はない。

 だから、「社会的距離」で定量化したくないのである。作為に責任が伴うが、不作為にはもっと大きな責任が伴う。いずれ歴史が検証してくれるだろう。

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