私はこうして会社を辞めました(22)―上海稲門会と「誠」

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22200 日本料理店「誠」で開催する上海稲門会定例会(上海稲門会ブログ公開写真から拝借)

 中国大陸全土の日系企業統括マネージャーになると、私が担当していた欧米系・中国系顧客がほぼ全数はずされ、日系企業に専念することになった。上海常駐で、北京、大連、青島、広州、深圳などの主要都市は、2か月1回ほどの定例出張訪問でカバーする。

 95年当時の上海は、今日に比べられないほど、娯楽が少なかった。日本料理店も高級ホテルを除いて、まともに食べられる街のレストランは十軒あるかないかの状況だった。

 その中でも、異色に輝く店があった。いまでも、健在する日本料理「誠」だった。店の場所も当初と変わらず、巨鹿路交差点に近い富民路沿いにある一階の路面店である。橋本さん一家が切り盛りする店で、家庭的な味とサービスで日本人客を引き付ける。玄関近くの水槽にいつも黒ソイが泳いでいてそれが実に淡白で旨い。

 この「誠」といえば、早稲田出身の上海在住者で知らない人はいないだろう。何といっても橋本家二代ともバリバリの早稲田人、いまでも、早稲田OB会である「上海稲門会」の定例会は、必ずこの「誠」で催されるのだ。そこに長いストーリーがある。

 90年代当初の「誠」は、橋本さん一代目で経営していたが、後橋本さんが病気に倒れ、店の経営を断念するかどうかのところ、二代目の橋本さん、「誠(せい)ちゃん」が毅然と立ち上がり、店の経営を受け継いだのだった。その当時、稲門会の仲間から寄せられた数多くの激励の言葉が誠ちゃんを支えたという美談もあり、「誠」は上海にいる早稲田人の心のよりどころといっても過言ではない。早稲田大学元総長の上海訪問時も、「誠」で歓迎会が催されたという早稲田ゆかりの名店なのだ。

 90年代初頭に、橋本さんのように中国へやってきて、しかも定住する日本人は非常に稀だった。それだけ強い意志力の持ち主でもなければとても生き残ることができない。少し商売がよくなると、すぐにあちこち支店を出したり、フランチャイズ化を図ったりする料理店と違って、「誠」は、十五年以上も同じ場所で同じ人が頑張っている。派手な宣伝も一切せずに、お客様には大きな安心感を与えている。まさに、店名の通り、「まこと」そのものだった。

 ロイター上海時代、私は、M商事の顧客に「誠」に連れて行かれた。当時の上海では、本物の日本の味を味わえる店がとても少なかったので、その品質に驚いた。以降、顧客の接待といえば、まず「誠」だった。

 今の上海は、日本料理店が氾濫している。私が絶対に行かないのが食べ放題系の店。あの値段を見れば、良い素材を仕入れると店が潰れてしまうことが分かる。ある程度の手抜きはむしろ容認すべきだと思う。素材にこだわりたいとか、出汁にこだわりたいとか、そういう人はやはり食べ放題系の店を断念するしかないのだ。

 振り返ってみると、90年代当時の上海は、インターネットもない、いまこそ戦国時代如き乱立する邦字タウン誌もない、料理店や飲み屋は、もっぱら口コミに頼るだけだった。日本人コミュニティーも驚くほどしっかりしていて、強い連帯感があった。後マンション住まいに移った私の住むマンションに、数世帯の日本人が住んでいたが、毎週ちゃんと回覧板が回ってくるほどだった。

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