私はこうして会社を辞めました(41)―香港とマカオの思い出

<前回>
(敬称略)

23438自宅の窓から望む香港のビジネス街

 私は、跑馬地(ハッピーバレー)にマンションを社宅として借りた。路面電車の始発(終着)駅の直ぐ横にある高層マンションだ。日本人にお馴染みで、あのそごうデパートのあるコーズウェイベイ(銅鑼灣)までは、車で3分という至近距離。

 ロイター香港の事務所は、住宅地で日本人も多く住む太古城にある。いつも、私が都心の商業地から周辺住宅地へ朝に出勤するので、下りの道路が非常に空いていて気持ちが良い。

 ハッピーバレーの自宅は、広い競馬場を目下に収め、金鐘(アドミラルティー)や湾仔(ワンチャイ)など香港島側のメインエリアを何ら障害物もなく一望する好立地だった。昼間なら香港のスカイラインも素晴らしいが、夜になると、室内の明かりを落とせば、百万ドルの夜景を存分に楽め、ホテルのバーに負けないくらいだった。

 ただ部屋が上海時代よりずいぶん狭くなった。香港の物価が総じて高いし、不動産物件はこれだけの立地条件となればべらぼうに高いので、贅沢にいえない。マンションの建物が細身で高いので、台風が襲来すると、建物が揺れ、足元がふらふらしてスリル満点だった。

 私の前任者の伊野宅で働いていたフィリピン人のメイド、レンをそのまま受け継いで、我が家で働いてもらうことになった。レンは、いつもニコニコして一杯がんばってくれる。彼女の得意は何といってもアイロン掛け、出来上がったシャツはパリッとして折り目正しい。最高級ホテルのランドリーサービス顔負けの仕上げだった。レンが準備してくれたシャツを身に着けて出勤すると一日の気分が変わる。また、夜くたくたになって帰宅しても、レンが笑顔と元気一杯な声で「グッド・イブニング、サー」と挨拶してくれると、今日も生きていて良かったと感謝の気持ちで胸いっぱいになる。

 レンもそうだが、多くのフィリピン人のメイドは、家政婦という職業を誇りに思っている。彼女たちの履歴書を見ると、「10年間子供の世話の経験があり、夜泣き対応が得意」、「スペイン人の家庭で長く勤務したため、スペイン料理もOK」といった具体的な紹介があり、自分のプロ性をアピールする。中国本土では家政婦などのサービス業を見下す人が多い。その職業に就く人自身まで自分の職業を軽蔑すると、プロは育たない。

 今の香港は本土化が進んで面白くなくなってきたが、私が駐在していた返還直後の香港は、イギリスの名残を随所感じられ、まだ良かった。あの有名なペニンシュラホテルのロビーにあるアフタヌーンティーは、一時日本人観光客に占領されたが、今は本土の成金たちのたまり場となり、ペニンシュラのウェイターが嫌そうな顔でつたない北京語でサービスしているのを見ると、限りなく悲しくなる。

 「They have nothing but money」(彼たちは、金以外何も持っていない)、マナーの悪い成金の中国人たちは、香港でこういうふうに言われているのだ。

 香港の隣のマカオも香港と同じ命運で、今はひどい街になった。香港に比べると、マカオは、寂れた町並みだ。石畳の横丁にふらっと迷い込み、古き良きポルトガルの風情が漂う。私が香港駐在中に度々週末にマカオまで足を伸ばした。古い建物をただ見上げるだけで幸せな時が流れてゆく・・・

 マカオに魅了された私は、香港を離れる前に、ポルトガルの旅に出た。リスボンの夜がファドの哀愁な旋律と共に更けてゆくと、アジア人の私の心に、何故かマカオの町並みを思い出さずにいられなかった。しかし、今のマカオはわけの分からない巨大カジノ施設が作られ、そこには大陸の腐敗しきった官僚が連日賭博や買春に中国国民の税金を使い込んでいる。

 マカオは、アメリカのラスベガスを模倣したようだが、何もない砂漠だったラスベガスと違って、歴史あるマカオは破壊が大きかった。

 経済急成長の中国本土をモデルにして得るもの、失うもの、次世代に伝えるメッセージは何だったのだろうか・・・

<次回>