労働者全敗の仲裁裁決、法の意義を再考する

 「申立人(労働者)のすべての申立て請求を棄却する」

 先日、ブログで書いた「広州労働仲裁~法廷で戦う前に、まず法廷と戦う!」案件の裁決書が届けられた。

 顧客企業の全勝。

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 喜んだのはつかの間。「労働契約法」がなかったら、労働者が会社を訴えなかったのかもしれない。訴えなかったら、会社も労働者に温情処理をしたのかもしれない。それが、本来あるべき姿、「和諧」、和の世界ではないだろうか。

 しかし、「労働契約法」は労働者の権利擁護といって、労働者に過剰なぐらい権利を与える一方、企業の義務を大きく制限した。どんな世界にも、個別の「悪」や「不良」、または「権利の悪用」が存在する。個別の労働者が権利を悪用すると、企業は必然的に防御に打って出る。そこで問題が生じる。個別の労働者が矛先を特定の一企業に向けても、その企業の防衛は全労働者に及ぶのである。「悪」の一労働者の所為で、他の「善」の労働者全員が仮想敵にされることもしばしばある。

 結果的に、労使ともに被害者になっている。元々あった「労働法」をきちん守っていれば、労働者の権利はすでに十分にあったはずだ。しかし、そもそも「労働法」も、労働者の権利も一貫して無視してきた一部の「悪企業」は、「労働契約法」などを守るのか。

 中国の問題は、「法制」ではなく、「法治」だ。私は一貫指摘している。法制度をいくら作っても、いくら厳格化しても、徹底実施しなければ役に立たない。ひたすら、法律を作り、厳しくすると、ガンの放射線治療のようで、がん細胞がやられる前に、善玉細胞がどんどん死滅してしまうのだ。

 「労働契約法」に係わる立法者や官は、新法実施後に、労働契約の締結率がいくらいくら上がったと自画自賛するが、そもそも、労働契約は何のためのものか問いかけたい。労働契約書がなくても、労使が平和に共存共栄できれば、契約書などは要らないのだ。紙の契約書だろうと、口頭の約束だろうと、それは重要ではない。重要なのは、信義誠実の心ではないか。

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