節約論

● 悪魔5円豆腐、「節約」志向で日本経済が崩壊する

 「節約」、今日本国内のキーワードになっている。

 「節約」は、中国人にも日本人にも美徳として、「善」として、認められているが、経済学では、そして、経済社会の現場では、必ずしも「善」ではない。

 みんなお金を使わなくなると、経済や市場全体のパイが小さくなる。生産や経済活動の規模が縮小すると、失業率も上がれば、創業も難しくなる。みんな失業を恐れていると、ますますお金を使わなくなる。そこで、悪のスパイラルに陥るわけだ。

 日本国内の「低価格ブーム」は、危険水域に近づいている。

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 インフレとデフレ、どっちが怖いか。私は、迷いなく、デフレが怖いと言う。インフレは、金融財政政策で調整する余地があっても、デフレの場合、利下げしても効かないし、打つ手がないからだ。

 「10円豆腐」やら「5円豆腐」、スーパーが低価格で競い合っている。もちろん、スーパーだけではない。日本国内の消費社会全体では、「格安」や「節約」が主流になっている。消費者の「個」の立場からにしては、これ以上嬉しいことはない。けれど、全社会、経済社会、市場の観点から、日本は非常に危ない崖っぷちに立っているといわざるを得ない。

 忘れてはいけないことがある。個人や家庭では、「節約」だが、企業では、「コスト削減」になる。低価格を実現するために、企業は日々「コスト削減」をしている。「コスト」の中に、人件費も含まれていることを忘れてはいないか。そして、「人件費削減」は、賃上げの減額や据え置き、減俸、そしてリストラにつながる。

 人間は、家に戻れば「消費者」になるが、会社に行けば「生産者」に変身する。この二つの顔を人間が同時に持っていることを、くれぐれも忘れてはいけない。

 そう、ツケは、必ず回ってくる・・・

●「低価格」も「節約」もいずれ死語になる

 「節約」は悪いことではない。だが、「節約」即ち「低価格」志向ではない。

 「低価格」とは、何か?「5円豆腐」は低価格である一方、生産者や流通業者にとって、もしやそれがすでに適正利益割れあるいは、無利益ないしコスト割れになっているのかも知れない。このような「低価格」は、消費者として喜んでいられるのだろうか。

 家庭での「消費者」は、仕事場での「生産者」になるという二重身分は説明したとおり、消費者の「過剰利益」は、生産者の「適正利益」を食いつぶし、そのマイナス影響は、必ず消費者に跳ね返ってくる。生産者の人員削減、流通チャンネルの削減で、失業を増加させ、社会の消費力を一段と低下させる。そして、品質管理のコストも削減されると、消費者にとって大問題になるに違いない。

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 消費者は、「価格」と「価値」に対し、適正な判断をする力を求められる。無節操な低価格追求は、価値の低下を招致する。自明の理である。

 しかし、価値が目減りしても、低価格に買い手が飛びつく理由は何だろう。それは、元々一部の製品は不必要な高品質を抱え込んでいたのではないだろうか。

 日本の製品は、世界的に見て、高級品としてはブランド力も品数も不足している一方、大衆品にしては品質が非常に高いという特徴がある。それは、絶対的大多数中流という日本の消費者セグメンテーションにぴったり合致している。

 現状を見ると、このようなマーケット・セグメンテーションは徐々に崩壊し始めたようにも見える。中流階級の大部分がワーキングプア状態に陥り、年収200~300万円の所得者が国民全体の3割ほどを占める段階にくると、日本という消費社会の商品構成は、大きく変わってしまう。

 「低価格」も、「節約」も、いずれ死語になる。

 「低価格」も、「節約」も、ある種の現状に比べて、下方修正に対応する動態的な表現である。収入減に対する消費行為の変化であり、いわゆる「生活防衛」である。しかし、収入が下げ止まると、動態が静態に変わり、「低価格」が正常な「ローエンド商品」になるわけだ。「節約」という動態も、「貧困」あるいは「準貧困」という静態に落ち着くだろう。それに連動して、ミドルレンジ中心の日本のマーケティング手法も、本質的な変化が見られるようになる。つまり、低所得者という消費者層のためのローエンド商品市場の誕生である。

● 「生活防衛」の落とし穴、政治家の騙し術

 「節約」の真の意味は、無駄をしないことである。基本的に悪いことではないが、度を過ぎると節約疲れになり、ストレスが溜まる。

 今の「節約」は、将来のためである。日本人も中国人もほとんどこのように考えている。では、一生「節約」しなければならないとなると、そもそも何のために生きているのかを考えてしまう。

 「贅沢」というのは、日本の文化でも、中国の文化でも、「悪」まで行かなくとも、一般的に決して推奨される価値観ではない。「無駄」や「浪費」になると、それは一種の「悪」として認知されてしまう。

 切り詰めるよりも、その分多く稼げば良いのではないか。5000円使って1万円を稼ぐよりも、5万円使って10万円を稼いだ方が良いに決まっている。一つの国、国民全員がお金を使わずに節約すると、経済は必ず停滞する。パイも小さくなる。

 「生活防衛」という美名のもとで、国を挙げての節約ブームは凄まじい。メディアの力も決して過小評価できない。戦後の日本は、和平憲法の下で軍隊を失い、自衛隊を作った。そのせいもあってか、とにかく「攻撃」よりも、いわゆる正当性があって、正義感溢れる「防衛」が主流価値観となった。それが最終的に今日の「草食」化に至った。

 では、守りきれるのか?生活防衛に徹した草食軍団。防衛をすべて捨てて、攻撃に切り替えなくても、少なくとも、防衛と攻撃のバランスを取りながら、進むべきではないだろうか。

 「攻撃」とは、価値の創出である。価値の創出に必要なコストまで削られてしまうと、社会が共倒れになる。無節操な「節約」も、「生活防衛」も、日本という国家を「低価格」「低価値」の貧困国に陥れる。

 日本は決して、「無駄」のない国ではない。製造業以外の労働生産性が低く、無駄が大きい。政府の無駄がもっと大きい。まず、無駄の最も大きいところから、切り詰めるべきだ。

 無駄をなくす。民主党政府が「仕分け」という流行語を作った。それは正しい。しかし、仕分作業を鉛筆ナメナメする連中らに任せるのが間違いである。仕分けするのは、市場メカニズムである。

 家庭の生計を切り詰めながらも、「生活防衛」に余念がなく、「節約」疲れで喘ぐ日本国民は、いまだに「大きな政府」に希望を託しているのも、諸外国の目にさぞかし奇異な存在として映るだろう。