企業家の身に道徳の血液が流れているのか、資本主義論再考

 水野さんのコメントを紹介した昨日の記事の展開として、水野さんが指摘した「軽薄的米国式資本主義」を異なる目線(マクロ的視点)から見つめてみようと思った。

 「企業家の身には、道徳の血液が流れていなければならない」、温家宝総理の発言だ。粉ミルクのメラミン混入事件などに対し、感情を込めた発言である。

 それを遡れば、株主や投資家の身にも、道徳の血液が流れていなければならない。ケインズは資本主義社会を構成する階級として、資金を供給する投資家階級、労働力と資金を需要する企業家階級、労働力を供給する労働者階級の三つのクラスが存在するとした独特の階級観を有していた。

 いまのいわゆる労使関係というは、より精緻に区分すると、「労-企-資」関係となる。そこで、温首相が提唱する「企業家の道徳の血液」は、そもそも川上にある投資家にも求めなければならない。しかし、果たしてそれはできるのだろうか。オーナー企業の場合、「企-資」の同一性から一定の可能性もあるだろうが、複数の投資家からなる企業となると、大変難しくなる。複数の投資家に同一の価値観と企業観を有していることを求め、投資家の選別は不可能に近い。

 資本主義の基本原理とは何か?生産手段を持つ資本家が、賃金労働者を使用して利潤を追求する社会システムである以上、資本家や投資者に、道徳観レベルの要件を課すことは不可能だし、資本主義のメカニズムにも反する。

 経済学の世界に、いきなり社会学的な要素をぶち込むには、無理があるからだ。

 アダム・スミスが描いた人間のモデルは、功利主義の思想を経由し、さらに物欲の充足を利己的に追求する人間というもの、つまり完全なる経済人である。だとすれば、たとえば上場企業の場合、数千数万数十万の大衆投資家に、企業の道徳云々を語ることも、求めることも不可能だということは、自明の理である。

 もっとも、注目してほしいのは、今日の労働者自身の多くが上場企業の株を購入し、すでに企業の投資家にもなっていることである。資本家や企業家の搾取に不満を噴出させながらも、目を皿にして日々株価の騰落に一喜一憂している。富士康(フォックスコン)の労働者搾取経営を批判していながらも、アップル株を保有している、このようなことがあってもおかしくない。何と奇妙な光景であろう。

 直接企業の株を保有していなくても、所属会社の持ち株やストックオプションをもっていないか、投資ファンドは購入していないか、労働者が加入している社会保険、年金自身も立派な投資者となっていることを決して忘れてはならない。

 今日の世界は、労働者が投資家という異なる顔を持っている一方、投資家や企業家自身の多くもせっせと労働者として働いているのである。

 資本家階級と労働者階級の対立を基本とする古典的学説は、現代社会においてすでに変質しつつある。「労-企-資」の関係は、個別独立したものではなく、多重の身分をもち、相互可転換関係にあることに注目されたい。

 米国式資本主義といえば、短期利益至上主義の弊害が大きい。その反面、慈善事業をはじめとする企業価値の社会還元も行われている。いま、流行の言葉でいえば、CSR(企業の社会的責任)である。しかし、中国などのアジア諸国では、米国式資本主義の利益追求のみが根付いたものの、CSRなどは一向に定着しない。

 すると、今後もより米国式資本主義の軽薄化に拍車がかかるだろう。