旅立ち(2)~お別れの営みとは何か?

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 香典会計係の件、私と妻が義兄弟に問い詰めたところ、「葬儀社から言われたとおりやっているだけ」との返事。さらに葬儀社に照会すると、「こういうことになっているので・・・」と説明らしい説明がない。

 葬式とは何か。故人にお別れを告げるための営みである。では、お別れの営みとはどのようなものであるべきか。

 故人の遺体を荼毘に付し、最終的に納骨する、という物理的処理を最終目的とするが、より多くの部分は精神的なものではないだろうか――。故人の面影や思い出をしっかり胸に刻み、そして、その死を受け入れる。さらに故人に縁のあった者同士が互いに絆を再確認し、新たなスタートを切る・・・

 私と妻(長女)は当初から、「家族葬」を提案していた。親族とごく身近な友人、知人の少人数で静かなセレモニーを行い、儀礼的な弔問も香典も受けないものである。結果的に急逝したことで、じっくり議論する時間もなく葬儀社から提案されたままの儀式になった。

 大勢の弔問客がやってくることは、故人の人望を物語る。一般論として否定しにくい論理だろう。そして、香典収入がほとんどない少人数の内輪による「家族葬」なら、その経費の全額負担が家族にかかってくる。このような費用面の問題もないわけではない。

 甲乙を付けたり、これが正しいあれが間違いというふうに位置づけたりするつもりはない。故人の生前の意思や家族の価値観、倫理観にかかわる問題である。現に大人数のセレモニーを見ると、慌ただしいなか、家族らはむしろ弔問客の接待に追われている。なかに、故人のお傍にいることもできず、裏方の事務係として働く私のような人間もいたりする。

 私は故人の遺体を前に、じっくりと心の対話をしたいと願ってやまない。私と妻が遠い海外に住んでいるだけに、義母と顔を合わせる機会がそう多くなく、年に1回あるかないかの里帰りも慌ただしく、じっくり親孝行をする余裕がなかった。最後の最後だからこそ、もう少し長くお傍にいたい、旅立ちを静かに見送りたい。

 少なくとも通夜や葬儀を盛大な社交の場にすることに私は強く抵抗を感じる。故人とのお別れは、イベントではないはずだ。親族と故人が最後の心の対話を交わし、ゆっくりと、静かに、思い出に満ちた濃密な時間が流れ、温かい心のこもったやさしい「場」になってほしい、と私が願っている。

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