渋滞による遅刻で考える人間の生存意義

 どうして遅刻した?

 「渋滞だ」。これはもう定番のエクスキューズになった。「あっ、そう」。冷たい目線を感じませんか。この時代では、渋滞を遅刻の理由にするほど愚かなことはない。

 金曜日、杭州出張から上海に戻ってからのアポは、約束の時間に遅れた。杭州は予定よりも30分早く出発した。高速道路は予想以上に空いていて一時、予定より45分ほど早く到着するのではないかと。しかし、上海市内に入ると、週末に雨のせいか予想外の大渋滞に巻き込まれる。

 まさに「不可抗事由」だ。でも、私は「渋滞」を理由に遅刻を正当化することに強く抵抗を感じる。どんな事情があっても、遅刻は遅刻だ。許されるべきではないし、失礼な行為だ。「時間管理ができませんでした。大変申し訳ありません」とただ、謝罪するのみである。

 「渋滞だから、没弁法(しかたありません)」。中国ではこれが一般的な認識のようだ。本当に、「没弁法」なのか?自分でも「没弁法」と諦めたら、問題解決は到底できない。

 遅刻の完全撲滅までいかなくとも、最小限化するために、きっといろいろな解決方法があるはずだ。問題解決に常に取り組むのが人間の生存意義ではないだろうか。