<雑論>政治とは自分自身を変えるもの / 「民主主義神話」と愚民の自由 / 涙とスローガンと「反中」幻想 / 「一代人の仕事」

● 政治とは自分自身を変えるもの

 私は中国において、3つの大学院に社会人として留学した。時期は三十代後半から四十代後半にかけてである。

 しかも、学位取得を目的とした正規課程であったため、通学は夜間や週末ではなく、平日の昼間に行っていた。したがって、当然ながら業務に割ける時間は大きく制限され、商売上の損失も少なくなかった。

 経営コンサルタントとして独立したのは三十代半ばのことであったが、その頃、自分がいかに視野狭窄で、無知であったかを思い知らされた。

 思い返せば、大学時代の私は勉強らしい勉強をほとんどしていなかった。入学の際、親から「4年間分の学費と生活費を一括で渡す。あとは自分でやりくりせよ」と言われたものの、親不孝な私はわずか半年でその全額を使い果たしてしまった。その後も、アルバイトをしながら、遊びに耽る日々が続いた。

 しかしながら、社会に出て自ら稼いだ金で学費を払い、再び学問に向き合うようになると、人間はここまで真剣になれるのかと、自分でも驚くほどの集中力を発揮するようになった。

 何よりも幸運であったのは、中国の労働法の立ち上げに関与した偉大な恩師との出会いである。その恩師からは、「経営学や法学だけで世の中を語るな。政治を学びなさい」と厳しく叱責された。これを契機に、私は本気で政治の学習に取り組み始めた。

 この出会いがなければ、今の自分は存在しなかったであろう。そして、この経験こそが、現在のコンサルティング業における実践知の礎となっているのである。

 だからこそ、私は今でも政治に無関心な人々を見ると、残念に思う。政治とは、選挙や法律の話でもなければ、社会や国家を変えるものでもなく、自分自身を変えるものである。自分の立ち位置や役割を理解し、現実を受け入れ、行動を起こす――そのプロセスそのものが政治なのである。

2013年6月、中国・華東政法大学法学博士号を取得

● 「民主主義神話」と愚民の自由

 「言論の自由」をやたらと声高に叫ぶ人間ほど、実のところ、まともな言論ができていない。なぜか。そもそもその根底にある「思考の自由」が欠けているからだ。考える力がなければ、何を喋っても空虚になる。空虚な言葉に、いくら「自由」の冠をかぶせても、それはただの騒音にすぎない。

 そう考えると、民主主義というのは実に過酷な制度だ。国民一人ひとりが「考える」ことを前提として設計されている。だが、現実の大衆にその力があるだろうか? いや、ほとんどの人間は考えてなどいない。与えられた情報に飛びつき、空気で投票し、気分で政治家を罵倒する。こうした人々にとって本当にふさわしいのは、実は民主主義ではなく、最適化された独裁権威主義なのかもしれない。

 今のシンガポールがその一例である。中国もまた、別種の合理的統治モデルを提示している。そこには「馬鹿は喋るな」という鉄則が貫かれている。そして実際、それで国家は効率的に回っている。喋る資格のない者に、喋る権利を与えない。それが結果として秩序や成長を生んでいるのだとすれば、皮肉でもなんでもなく、それが「正しい」のではないか。

 日本では、政治家への批判が日々繰り返されている。交替しろ、辞任しろ、誰がやっても同じだと嘆きながら、結局また同じような人物が当選する。問題は政治家ではない。政権交替しても社会が変わらないのは、大衆の側が思考停止しているからである。

 民主主義に疲弊し、民主主義に苦しみながら、それでも誰も「民主主義をやめよう」とは言えない。なぜか? それは、民主主義が「普遍的正義」であり「絶対善」だと信じ込まされているからだ。民主主義という宗教においては、それを疑うことすら許されない。左右問わず、誰もがその聖域に足を踏み入れられない。言えば「危険思想」として排除されるだけだ。

 だから私は言ってしまう。民主主義がもはや成り立たないなら、権威主義に戻ったほうがいいと。少なくとも、思考する者が思考できる環境が必要であって、考える力のない大衆に統治の意思決定を委ねるのは、やはり無理がある。いくら綺麗事を言っても、大衆が思考を放棄しているかぎり、彼らは永遠に搾取され、苦しみ続けるだろう。

 そしてそれは、自業自得である。

● 涙とスローガンと「反中」幻想

 今の時代、「女性」「弱い」「恐怖」といったワードで世論を煽る光景があまりにも多い。そして、それに煽られる人びともまた少なくない。構図は単純明快だ。「弱=善」「強=悪」という二元論にどっぷりと浸かることで、日本人は「思考の自由」から永遠に遠ざかっていく。

 政治の場において、最近特に目立つのは「泣き」の戦略である。これは感情を使った演出であり、同情や共感を引き出す手法だ。「私は被害者です」と涙ながらに訴えることで、自らの正当性を印象づける。だが、その涙に裏打ちされた覚悟や責任感がないなら、それはただの演技にすぎない。

 政治家に求められるのは、感情ではなく、政策と理念である。感情を前面に押し出しても、国を動かす力にはならない。陰謀論や敵対者への攻撃に頼るような姿勢は、ただのポピュリズムであり、政治不信を深めるだけだ。民主主義にとって本当に必要なのは、論理的根拠に基づいた議論であって、涙で武装した主観ではない。

 その「涙と感情の政治」は、いま別のかたちでも現れている。F氏やH氏といった若手の女性政治家が、街宣やSNSで「中国悪」「中国人悪」といったスローガンを連呼するような姿が目立ってきている。これはまるで、ナチスがユダヤ人を悪者としてラベリングし、大衆の不満を吸収していった時代の再現である。

 しかし、決定的な違いがある。ナチスはユダヤ人を迫害しても、国家経済が致命的に損なわれることはなかった。むしろ資産没収や強制労働で一時的には得をしていた面もあった。だが、いまの日本が中国と断絶すれば、それは国家の自己崩壊を意味する。中国への依存はサプライチェーンにとどまらず、消費・流通・金融・観光などあらゆる分野に及んでいる。

 にもかかわらず、感情で突っ走る政治が経済的現実を無視して暴走している。それが最大の危機だ。日本人は「嫌中」「反中」と声高に叫びながら、「断中」だけは決してできない。いや、むしろ逆に「断日」される恐れのほうが現実的だ。

 ある試算によれば、中国製品や中国経由のサプライチェーンを絶たれた場合、日本人の生活コストは2~3倍に跳ね上がるという。つまり、何千万人もの生活が破綻し、1~2割の国民が餓死ラインにまで追い込まれるかもしれない。それが、いま我々が直面している「現実」である。

 政治の劣化は、理性の敗北から始まる。そして、その背後にあるのは、涙とスローガンと幻想によって支配された「感情の政治」なのだ。

● 「一代人の仕事」

 李鴻章の言葉に「一代人只能干一代人的事(人はその一代分の仕事しかできない)」というものがある。歴史の深淵から響いてくるこの一言は、現代日本においてもなお、大きな意味をもっている。

 いまの日本が抱える課題――少子化、経済の停滞、制度疲労、国際的地位の相対的低下――これらはいずれも一世代の努力で一気に解決できるような軽いものではない。むしろ、長い時間と複数の世代を必要とする構造的な問題だ。その中で、現役世代に求められる役割とは、「すべてを変える」ことではなく、「次の世代が前に進めるだけの地盤を整えること」に尽きる。

 我々が果たすべきは、革命でも救世でもない。制度や仕組みに巣食った歪みや腐敗を、できる範囲で正し、次世代が無駄な遠回りをしなくて済むような希望の足場を築くことだ。これは地味で評価されにくく、達成感にも乏しい仕事である。だからこそ、「どうせ何をやっても無駄だ」という諦めの空気が広がりやすい。

 しかし、まさにそうした空気の中でこそ、李鴻章の言葉は慰めであり、そして何より覚悟なのだと思う。「我々の代で何も変わらなかった」と嘆く必要はない。「我々の代で、次の世代が少しでもマシに進める道を残せたか?」――問うべきはそこなのである。

 すべてを変えようとするから挫折する。逆に、自分の世代に与えられた範囲で、どこまで誠実に「一代人の仕事」を果たせたか。その自覚があれば、たとえ表面上の成果が見えなくても、それは未来にとって意味のある営みとなる。

 問題は、その誠実さがこの国の現役世代にあったかどうかだ。目の前の選挙、目の前の利益、目の前の支持率――そういったものにばかり目を奪われ、「次の世代」のことなど誰も考えていないように見える。

 李鴻章は、冷徹な現実主義者だった。同時に、深く国家の未来を見ていた。今を生きる我々もまた、未来の人々に対して無責任ではいられないはずである。「すべてを解決しよう」とはしなくていい。ただ、「次の世代が立てる地盤」を、ほんの少しでもましにして渡す。それが一代人の仕事である。

タグ: