<雑論>学位もスーツも捨てよ / 「毅然」と喧嘩を売る / 国家を壊すのは民意ではく民欲である /お米券 /「愛」の順位

● 学位もスーツも捨てよ

 私は博士号を一つ、修士号を二つ持つ、いわゆる高学歴のスーツ組である。その立場から、はっきり断言しておく。学位もスーツも、もはや意味がない。少なくとも、それ自体が価値や能力、責任を保証する時代は終わった。

 学位は本来、知性や思考力の証だった。しかしAIの登場によって、その意味は大きく劣化した。今や学位は、過去に一定の訓練を受けたという履歴情報に退化している。知識の取得、整理、言語化という機能は、AIが人間を圧倒的に上回る速度と精度で実行できるからだ。

 私は大学の講壇に立ち、学生に問いかけた。君たちが受けている授業内容のうち、AIが同等かそれ以上の知識を出せる割合はどれくらいか。返ってきた答えは80〜90%。迷いのない数字だった。

 さらに自分の教材をAIに投入して検証したところ、科目によって3割から7割はAIで代替可能だった。この結果を見て、私は大学で教えることをやめた。価値がないからではない。足りないからだ。AIで代替できる知識伝達を、従来のコスト構造のまま続けることに、もはや合理性はない。

 私は教育事業を中止し、全資源をAI事業に振り向ける決断をした。理由は単純である。教育の大部分は、すでにAIができるからだ。否定しているのは教育そのものではない。否定しているのは、知識が希少資源だった時代の幻想である。

 同じ構造はコンサルティング業にも当てはまる。分析、資料作成、情報整理といった中核業務は、すでにAIが人間を上回っている。当社はこの現実から目を逸らさず、従来型コンサルモデルを相対化し、AIを前提に人間の役割を再定義する方向へ舵を切った。

 だから採用要件も見直した。「大卒」から「高卒」への引き下げである。学歴はもはや差別化要因ではない。一方で高卒人材は現実に強い。努力量が多く、対人場面での感情労働を厭わず、現場での学習速度も速い。AI時代に価値を持つのは、学歴ではなく適応力と対人対応力だ。

 私はスーツが嫌いだ。スーツはユニフォームであって、機能服ではない。本来ユニフォームとは、役割とリスクを可視化する装備である。消防士の耐火服、作業員の安全靴、医師の白衣。すべて機能に直結している。

 ではスーツはどうか。暑い、動きにくい、洗えない、値段だけは立派。機能はほぼゼロだ。残っているのは、それっぽさだけである。スーツの本質は仕事のための装備ではなく、身分表示と同調圧力だ。私は会社側です、私は管理される側です、という無言の自己申告に過ぎない。

 AI時代には、この虚飾は一気に滑稽になる。成果はログで残り、意思決定は記録され、発言もアウトプットも可視化される。その世界で、ネクタイが締まっているかどうかに意味はない。AIに聞けば、即座に0点をつけるだろう。

 スーツを着て年収1000万円より、ヘルメットを被って年収1000万円のほうが、よほど資本主義に忠実である。資本主義とは本来、肩書や見た目ではなく、価値と希少性に対して対価を支払う仕組みだからだ。

 社会を動かしているのは会議室ではない。電気、物流、食料、インフラ。これらは現場で誰かが手を動かさなければ一瞬で止まる。止まった瞬間に社会は機能不全に陥り、損失が発生する。それにもかかわらず、現場を担う人間の賃金が低く抑えられてきたのは、見えにくさと慣行の歪みでしかない。

 一方、情報の整理や調整を担ってきたホワイトカラーは、AIに代替されやすく、止まっても社会は即死しない。冷酷に言えば、報酬は感情ではなく、止まったときの損失額で決まるべきなのだ。

 士農工商を機能論で読み替えると、現代社会の歪みが見える。農は生産の源泉であり、現場労働やインフラを含む広義のブルーカラーだ。工は加工と変換、製造や保全、コードを書く側のITもここに近い。商は流通と仲介で、価値を生まずに回す役割。現代ホワイトカラーの大半はここに属する。

 士とは本来、判断し、決断し、失敗の責任を引き受ける存在だ。肩書ではない。覚悟の問題である。問題は商が増えすぎたこと、しかも自分を士だと誤認している商が多すぎることだ。AIが真っ先に削るのは、価値を生まず、責任も取らず、ただ仲介している層である。これは倫理の話ではない。構造の話だ。

 結論は明快だ。ホワイトカラーの大半は商であり、AI時代に最も過剰で、最も調整される階層である。知識はもはや希少資源ではない。希少なのは、問いを立てる力、構造を見抜く力、そして意思決定だ。学位やスーツにしがみつく時代は終わった。AI時代に残るのは、責任を引き受け、現実を動かす者だけである。

● 「毅然」と喧嘩を売る

 客の理不尽、上司の理不尽に、「毅然」と立ち向かう人はどれだけいるのか?それを「弱腰人生」となぜ、言わないのか?世の中、「毅然」とした姿勢で終始する人はどれだけいるのか?実生活中の色んな理不尽に耐え抜く人々には、はけ口が必要だ。高市が「毅然」と中国に「立ち向かった」瞬間に、その人たちは一斉に自己投影し、スッキリする。

 世の中、正しいか間違いかの解釈は人によってそれぞれ違う。問題はそこではない。問題はやったことの「結果」を自分で引き受けられるかどうかだ。客や上司に喧嘩を売ってその結果を引き受けるのは自分と家族だけだが、外国に喧嘩を売った結果は国家国民全員が引き受けなければならない。

 民主主義の一番怖いところは民意。8割の日本人が高市の「喧嘩売り」を支持するのなら、喧嘩を売るのが正しいことだ。中国の制裁にはまた「毅然」と「立ち向かう」。

 観光客が来なくなって静かになって良かった。
 ホタテを台湾に売ればいい。
 レアアース規制がかかっても南鳥島で開掘しよう。

 まあ、いいじゃないか。結果が全て良しと。

 外国に喧嘩を売って得する場合はあるのか? ある。ごく稀だが、喧嘩をうまく交渉のカードにして交渉でもっと有利な結果を手に入れれば、良い喧嘩だ。しかし、喧嘩を売って交渉の場すら失ってしまったら元も子もない。さらにいうと、前者で交渉から得する場合は、「力」が必要だ。その力は、喧嘩力ではなく、経済力と軍事力である。

 サラリーマンでいえば、上司や客に喧嘩を売れるのは、「転職力」または「自営力」、あるいは単純に「財力」のある人に限られる。

● 国家を壊すのは民意ではく民欲である

 戦争を含め、国家が取り返しのつかない不幸に転落する原因を辿ると、多くは「民意」に行き着く。だが正確に言えば、それは民意ではない。「民欲」である。

 本来、民主主義における民意とは、国益を前提に形成された判断の集合体だ。短期的な快楽や感情ではなく、コストとリスクを引き受ける覚悟を含んだ意思表示でなければならない。ところが現実には、民は欲望を理性に昇華させることなく、そのまま政治に投げつける。これが民主主義を最も厄介な制度に変える瞬間である。

 台湾問題や琉球問題を見れば分かりやすい。これらは本来、沈黙と管理が最適解になりやすい高リスク案件だ。議論すればするほど争点が増え、説明コストが跳ね上がり、相手に付け入る隙を与える。にもかかわらず、民は「正しさを主張したい」「気持ちよくなりたい」「誇りを確認したい」という欲望から、国家に発言を迫る。

 ここで重要なのは、彼らがその発言の代償をほとんど負わないという点だ。外交的摩擦のコストも、経済的報復のリスクも、最終的に引き受けるのは国家であり、制度であり、現場である。民は喝采だけを欲しがり、請求書は国家に回す。この構造が、国家判断を歪める。

 民主主義は、民の声を集める装置ではない。民の欲望をふるいにかけ、抑制し、国益に耐える形へ変換する制度である。その変換装置が壊れたとき、民意はただの騒音に堕ちる。歴史上、戦争を選んだ国家の多くは、指導者が狂っていたのではない。民の欲望に抗えなかっただけだ。

 国家にとって最も危険なのは、無関心な民ではない。欲望を正義だと勘違いし、口を出す民である。民主主義が成熟するとは、民が何でも言えることではない。言ってはいけないこと、言えば損をすることを、民自身が理解することだ。それができない社会では、民意は国家を守らない。国家を壊す。

● お米券

 日本がお米券を配るという話を聞くと、どうしても中国の貧しい時代の「糧票」(食糧券)を思い出してしまう。あの国は物が足りないから配給券を出した。日本は物はあるが、買う力が足りないから券を出す。どちらも国家の衰弱サインである点は見事に同じだ。糧票は生存のため、日本の券は人気取りのためと目的は違うが、政府が市場に割り込んで「物ではなく権利」を配り始めるという構造はそっくりだ。

 中国は統制能力があったから配給を本当にやり切った。日本は統制能力はないが、バラマキはする。配給ごっこだけは上手い。市民の購買力が下がり、賃金は停滞し、価格だけが上昇する。市場が死にかけた結果の施しを、あたかも政策成果のように誇示する。これではもはや福祉国家でも市場国家でもなく、ただの応急処置国家だ。

 糧票が歴史の遺物だと笑っていた日本が、気づけば同じ構造に向かっているのだから、風刺ではなく現実である。でも、メリットもある。デジタル米券をマイナンバーカードに紐づければ、一気にカード取得率が9割を超えるだろう。

● 「愛」の順位

 私は「愛国者」と自称している。これは、嘘ではない。ただし、愛にも順位がある。無差別の愛など現実には存在しない。愛は有限であり、分配の秩序をもつ。誰をどれだけ愛するかという優先順位は、倫理ではなく生の構造である。

 私の場合、一番は自分と家族。自らと最も近しい者を守れぬ者に、他者を語る資格はない。二番目は仕事と顧客。職務とは私にとって生の延長であり、社会との接点である。誠実に働くことが、他者への愛の実践でもある。三番目は国家。それは抽象的な共同体であり、個人と家族、仕事を支える枠組みとしての愛にすぎない。

 国家を一位に置く愛国は、しばしば個人を犠牲にし、家族を踏みにじる。だが、自分と家族を大切にする者こそ、結果として国家を支えている。

 ゆえに、愛の序列とは利己と利他を分けるものではなく、責任の同心円である。中心に近い愛ほど具体的であり、遠ざかるほど理念化する。そして理念化された愛は、最も容易に暴力へと変わる。私はそれを知っているからこそ、順序を誤らない。

 SNSでは、家族や仕事について多くを語らない。それらは言葉ではなく行為によって示すべき愛であり、誇示した瞬間に誠実を失う。私は国家について語るが、それは私的な感情ではなく、公共圏の問題としての愛を論じているにすぎない。

 私の愛国心は決して至高ではない。国家のために個を犠牲にする崇拝ではなく、国家をより良くするために批判し続ける責任の形である。沈黙の愛が家族と仕事に、言葉の愛が国家に向けられる。この二つの均衡の上に、私の愛の秩序は成り立っている。

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