私がFacebookから撤退する理由――使い切った市場から、静かに退出する

 17年間続けてきたFacebookから撤退する。それは、怒ったからでも、抗議したいからでもない。ましてや検閲に屈したからではない。理由は単純で、経済的・知的合理性が完全に失われたからである。

 そもそも、私にとってFacebookは目的地ではなかった。使用目的は、当初から明確に三つあった。

 第一に、顧客向けレポートや分析文書を執筆するための一次情報の材料仕入れとストック、そして部分的な思考の組み立てである。Facebook上の投稿は、その過程で生まれた派生的な副産物にすぎない。それをフォロワーにも共有することで、多少なりとも役に立つなら、それは一種の社会貢献だと認識していた。

 第二に、SNS上における人間の行動心理学・社会心理学の実践的観察である。人はどの言葉に反応し、どの構図で集団化し、どの条件で攻撃性や同調性を強めるのか。それを観察し、政治学や経営学、組織論へと接続し、理論ではなく現場感覚として活用することが主目的だった。

 第三に、SNSそれ自体の運営構造とビジネスモデルの観察と分析である。特にマーケティングの観点から、到達性、滞在時間、アルゴリズム誘導、外部流出抑制がどのように設計され、どの局面で発動するのかを注視してきた。

 これらの目的は、すでにすべて達成された。必要な材料は蓄積され、観察対象としてのSNSの性質も十分に把握できた。読者や関係者も選別され、主戦場は自サイトと直接チャネルへと自然に移行した。

 問題は、その後である。目的を達成したにもかかわらず、Facebookに居続ける意味があるのか。冷静に考えれば、答えは明白だった。

 現在のFacebookは、投稿内容そのものよりも、行動パターン、外部誘導、関係の深化、そしてプラットフォーム離脱の兆候をAIで監視している。これは表現の自由の問題というより、プラットフォーム支配を維持するための経済的設計である。

 私の側から見れば、構図は単純だ。私は自分の時間と思考と文章を投下し、Facebookの滞在時間と広告価値を高める。一方で返ってくるものは、到達力の低下、AIによる投稿やDMの制限、理由の示されない一時的なアカウント審査である。リターンは逓減し、コストとリスクだけが増えていく。

 これは経済学的に見れば、限界効用がゼロ、むしろマイナスに転じた取引だ。経営判断としては、即時撤退が合理的である。

 私は抗議しない。怒らない。説明も求めない。それらはすべて、相手のプラットフォーム上でさらに無償労働を提供する行為だからだ。条件の悪化した市場から、静かに撤退する。それ以上でも以下でもない。

 同時に、経営コンサルタントとして、私は大衆向けSNSであるFacebookの運営方針に大いに賛同している。巨大な不特定多数を相手にする以上、AIによる事前監視、流量制御、関係深化の抑制、外部流出への警戒は、運営側として合理的かつ必然の選択である。私はこれを否定しない。むしろ、ここから多くを学んだ。この設計思想は、今後私が取り組む組織運営OSへのAI組み込みにおいて、極めて実践的な示唆を与えてくれる。人間の善意や意思に依存せず、行動パターンと構造で制御する。その発想自体が、実務として正しいからだ。

 今回、私がFacebookを離れる直接のきっかけは、アカウントの一時的なBanと審査だった。しかし、それ自体が本質ではない。重要だったのは、制御の構造が完全に可視化されたことである。今後、私は自サイトと直接の連絡手段で発信を続ける。関心のある人だけが辿り着き、必要な対話だけが残る。それで十分だ。大量到達も、アルゴリズムへの配慮も、もう必要ない。

 Facebookは、使い切った。
 そして私は、その設計から学ぶ段階へと進む。

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