「快楽」と「幸福」、春節に思うエピクロスとアリストテレス

 春節だから、「新年快楽」の一色。

 「快楽」と同じ漢字を書いても、中国語と日本語では微妙なニュアンスの差がある。「happy」と「pleasure」、あるいは「happy」と「merry」のような違いかな(私の英語感覚で、それが間違っているかもしれないが)。

 思いつくは、ギリシア哲学者エピクロスが唱える「快楽主義」だ。彼の思想を説く邦書では、しばしば「快楽」と「幸福」を併用するところ、意識的に区別する必要があるだろう。ただエピクロスの「快楽主義」を英文文献で調べると、「happy life」よりも「tranquil life」と記載される箇所が多く見られ、いわゆる「平穏な生活」という意味で理解するのが妥当ではないかと思った。

 さておきながら、「幸福」への追求は終極的であることは間違いなかろう。ギリシア哲学の話に戻る。アリストテレスは、「幸福」(エウダイモニア)を最上の善とし、良く生き良く行為することを幸福として捉え、その辺は異論をはさむ余地がない。いや、ちょっと待って、異論をはさむこそが哲学ではないか。

 とあれこれ考え、春節にひたすら哲学書にかじるつく私には、妻が首をかしげる。「その本、表紙に変な顔が描かれてるね。哲学?難しそう。それって楽しいの?」。楽しいですかね。快楽か幸福か、自分も分からなくなってきた。さあ、一服してコーヒーでも飲むか。