情が法に勝ったとき、司法試験問題漏えい事件の背後

 司法試験問題漏えい事件、さぞかし信じられない出来事だ。明治大の青柳幸一教授が教え子の女性に試験問題を漏らし、試験で高得点を取らせた。法に仕える人が自ら法を破る。なぜこういうことになったのか。

 可愛がっている教え子をどうしても合格させたいという「情」から、試験問題を漏らすという歪んだ合理性(「理」)が生まれ、最終的に「法」に反するという最悪な結果になった。

 これは、私が仕事の場でもよく使う「法・理・情」の原理を使っても説明できるようだ。「法」というのは国家法律から企業内のルールまで広義的に捉えると、企業内の背任行為や違反行為、いずれもそれなりの背景や論理が見えてくる。「情」だったり、「理」だったり、最終的に「法」に背を向けて暴走にまで発展する場面も多々ある。

 悲しい出来事だ。

コメント: 情が法に勝ったとき、司法試験問題漏えい事件の背後

  1. 一方的に邪推と決めつけられておりますが、邪推と合理的な推論の境目となる基準はいかがでしょうか。法の結論だけが真実ではないはずです。

    「週刊誌のスキャンダル記事以下、品位がなく、法の厳粛性から逸脱している」とおっしゃられていますが、

    日本が誇る大新聞の一つにでさえ、

    「女性びいきで有名だった」 青柳教授のあだ名は「ブルー卿」
    http://www.sankei.com/affairs/news/150908/afr1509080046-n1.html

    と書かれています。このような事実ある以上、「初犯ではないに違いない」という文法的に「推定」を表す表現を使うことが断じてあってはならないとは言えないでしょう。

    もちろん、ここは立花先生のブログですので、「法律で確認された以上の事実・推測は一切書いて欲しくないし、私も書かない」とおっしゃられる、あるいは、「私はブログ記事には法律で認められた以外の事実・推測を書くことはあるが、読者は法律で確認された以上の事実・推測を書くことは許さない」とおっしゃられることも可能ですし、読者は従わざるでないですね。後者では、まるで某国みたいですが。

    1.  趣旨はすべて書いたとおりです。人の名誉権にかかわる邪推は品位がなく、法の厳粛性から逸脱しています。あなたの書き込みはこれに該当します。私はそう判断します。さらにいえば、あなたの言論「過去も同様なことをずっとやってきたに違いない」はもはや推測の領域を超えています。断定的なものである以上、容認できません。某国は名誉権をどこまで重視するか、分かりませんが、私のブログは私の信条と主義で運営します。趣旨違いと思えば、私のブログの読者から離脱すればいい、それだけの話です。

  2. 競争=弱肉強食と考えると、競争そのものには善悪がない。それに善悪を付けているのは、法であり、試験というルールに過ぎない。

    良性競争も悪性競争も、形容詞の部分は第三者が自分の基準で定めているに過ぎない。

    だから個人が情や理にを法やルールに優先させるということは常態的にありうる。

    実際、今回の事件も、教授はおそらく、(バレてしまうほどに回答をそのまま書くほど馬鹿だとは思わなかった・・
    )のではないか。学生のほうは確実に合格したかったら、実直に書いてしまったということころだろう。

    教授は初犯ではなく、過去も同様なことをずっとやってきたに違いない。素直に認めたのは、問題を早めに収束させるために、関係部門との取引があった可能性が高いと思われる。

    このように考えると、法やルールの制御力というのは実は非常に弱くて、頻繁に情や理に負けていると考えることもできる。

    【ブログ運営者】このコメントに一部、当ブログ運営ルールに反し不適な表現がありましたため、当該部分を削除しました。

    1.  「教授は初犯ではなく、過去も同様なことをずっとやってきたに違いない」。これはどこの情報ソースでしょうか。証拠があるのでしょうか。このような任意な推測、週刊誌のスキャンダル記事以下、品位がなく、法の厳粛性から逸脱しているし、断じてあってはならないものです。いくら容疑者でも名誉権があります。世間から勝手な邪推は許されません。初犯かどうか、すべて今後の司法調査や裁判の最終的結果を待つほかありません。私のブログでこのような言論は今後ないようお願いします。議論はこれで終了です。

  3. ————————————————————————-
    可愛がっている教え子をどうしても合格させたいという「情」から、試験問題を漏らすという歪んだ合理性(「理」)が生まれ、最終的に「法」に反するという最悪な結果になった。
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    こういう解釈もできますね。
    厳しい競争社会の中、どうしても合格しなければならないという手段を問わない学生の弱肉強食の情、地位があるとは言え老いた肉体で若い女性の心を得たいという同じく手段を問わない教授の弱肉強食の情、その情と情が結び付いて二人の理となった。それが法を犯させる最悪の結果となった。

    弱肉強食の競争原理をどのように制御するか、なかなか難しいところです。競争原理の善が上なのか、法の平等の善が上なのか。そもそも、その二つが競争状態にあるのか。興味深いところです。

    1.  司法試験は競争原理に基づき、弱者は当然落第する。あたりまえです。弱肉強食とどうしてもいうのなら、その通りです。競争原理を制御するのではない。法の平等とは競争原理の公正な体現であって、両者に何ら矛盾もないし、対極的な存在でもありません。法が担保する平等は決して結果の平等ではなく、機会とルールの平等です。

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