勝てない正義、ハンディは人生の敵か味方か

 トスカーナ地方の寒村に生まれ、幼時事故に遭い失明。後、勉学で法学博士号を取得し、弁護士になる。そして世界的なテノール歌手として活躍。彼の名は、アンドレア・ボチェッリ。

 もし、彼が失明しなかったら、いまのボチェッリはどうなっているのだろう。と、私はいつも考える。失明しても法学博士や弁護士、世界的な歌手になれるほどの人物で、正常の視力をもっていたら?想像がつかない。いや、もしかするとごくごく平々凡々な人として一生を終えるのかもしれない。

 ハンディというものは、人生の敵にもなり、味方にもなる。それは人間次第だ。私自分も職を失ったり、事業に失敗したり、全財産をなくして貧困のどん底に陥ったり、そうしたことは何回もあった。だが、私は視力を失っていない。ボチェッリほどのハンディは何一つも負っていない。四肢に障害がなければ半身不随にも陥っていない。もちろん脳も正常に機能できる。もう一度這い上がればそれだけでいい。

 人間は不幸の責任を他者に転嫁する習性がある。自己正当化できるからだ。上司が悪い。会社が悪い。国が悪い。社会が悪い。政府が悪い。安倍がもっと悪い。貧富の格差があるのは金持ちが悪い。金持ちの味方である法律や制度も悪い。最終的に競争で弱肉強食を生む資本主義が一番悪い。自分だけが正義だ。

 正義が勝つというが、もし、そんなのが正義だったら、その正義は永遠に勝てない。そして、不幸が一生の道連れだ。

コメント: 勝てない正義、ハンディは人生の敵か味方か

  1. アンドレア・ボチェッリは、素晴らしい歌声で人類の喜びに貢献したから素晴らしいのであって、ハンデを克服して頑張っても、ただ小金を貯めて理屈をこねくり回しているだけだったら、誰も尊敬しないし、感動しないことでしょう。

    アンドレア・ボチェッリも、不遇な人たち、弱い人たちを貶めるためだけの議論に持ち出されることを光栄だとは思わないと思いますよ。

    1.  他者責任にして自己の不遇を正当化するいわゆる「弱者」は、単なる自己に対する無責任に過ぎない。これは私の価値観です。コンサル現場でもその通り実践しています。私が作った顧客企業の人事評価制度においても、このような「弱者」は評価されません。

       あなたはあなたの価値を持たれて結構ですよ。ただ、私たちは同じ価値観を共有できない、それだけのことです。繰り返しますと、私は自分の価値観、信条を変えるつもりもまったくありません。そしてこの世の中は競争の原理が消滅することもありません。これから、競争は激化するのみです。それは好き嫌いや善悪の問題ではなく、存在そのものです。

       貶めるとか、光栄不光栄とか、そういう他者評価にはまったく気にしません。むしろ、対立した価値観の持ち主から批判されるのが当然のことで、大変光栄に思います。ありがとうございました。

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