なぜ人を殺してはいけないのか、恥じるべきは問いから逃げること

 先日上海出張中に、著名な中国刑法学者某教授と、セイコーウオッチ上海現地法人の殺人事件も絡んで意見交換の機会を得た。殺人罪の成立要件や量刑基準といった専門的な話だったが、そこで殺人の動機付けというテーマに私は大きな興味を持った。

 「なぜ、人を殺したのか」という以前に、「なぜ、人を殺してはいけないのか」という問いがある。

 随分前の話になるが、殺人話題にまつわる「事件」があった。少年による凶悪な殺人事件をめぐる某TV討論番組の中で、ある若者が「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いを提起した。これに対して、ノーベル賞作家大江健三郎氏が朝日新聞に寄稿してこう述べた。

 「私はむしろ、この質問に問題があると思う。まともな子供なら、そういう問いかけを口にすることを恥じるものだ」

 まともなのは、その子供であって、大江氏ではなないと、私はそう思った。この問いが不道徳だ、だから問題がある、だからまともではないと、大江氏が考えたのだろうが、まったく違う。論理道徳という概念を担ぎ出して、問いを抹殺することこそが不道徳だと私は思う。

 殺人という反社会的行為がなぜ起こったのか。その根底に流れる濁流に潜り込み、真相を究明するこそが責任ある姿勢ではないだろうか。これについていえば、大江健三郎氏の批判はナンセンスどころか、極めて非建設的であり、文化人としてむしろ恥じるべきものだと、私はそう思う。

 「なぜ、人を殺してはいけないのか」。この問いに対し正面からの回答はそう難しいものではない。「もしあなた自身が人に殺されたら、もしあなたの愛する人が人に殺されたら」という反問から答えが自ずと出てくる。

 だが、殺人者は、この問いに自分なりの回答を出しているのであろう。自分が殺されてもいい、世の中に愛する人もいない。生の意義や価値を失った人間はむしろ、復讐という行為に唯一の意義や価値を見出す。「もしあなた自身が人に殺されたら、もしあなたの愛する人が人に殺されたら」という仮説が否定された場面には、殺意が芽生え、衝動に駆られ、殺人行為が起こるのであろう。

 殺人行為は反社会的だという。企業というミニ社会の中に、ある日にある従業員が「自分が死んでもいい、愛する人ももういない」という情況がもしあるとすれば、それはどういうものか。この状況はどのように生まれたのか。この状況が進行していることに、企業の経営者・マネジメントは気付いていないのか・・・。

 このような事件が二度と起こらないためにも、痛々しい問いから逃げるのではなく、一つひとつ丁寧に答えていくべきではないだろうか。