真の保守とは(2)~「弱者」のトリックと罠

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 塩野七生「サイレント・マイノリティ~真の保守とは」の話の続き。本にはこう書いてある――。

 「保守主義者は、共同体のたゆみない前進のためには、優れている者と劣る者、健康者と病人、積極的である者と消極的な者などを一緒にせず、分離するしかないと思っている」

 試合は、強者を選抜するものだ。弱者を選抜するものではない。強者は必ず本物の強者だが、弱者は本物の弱者か偽物の弱者かなかなか判断できないからだ。いや、本物の弱者を選別する方法はたった1つ。それは確実に強者に多くの利益を与え、弱者に少ない利益、あるいは不利益を与えることだ。

 このように共同体の構成員に強弱のグループ分けをしたうえで、異なる処遇を与える。弱者には、不利益と敗者復活の機会を同時に与えることだ。その機会は、限られるもので、いつまでも与えられるものではない。1、2、3と、せいぜい3回までかな。

 世の中、資源は限られている。弱者に過剰な資源が当てられると、強者が本気で頑張らなくなる。場合によっては、強者も弱者に化けて救済を求めてくる。そうした共同体は、全体的衰退がはじまる。

 なので、弱者は善といえるのだろうか。それだけではない。ニーチェが言う。「悪とは何か?弱さから生じるすべてのものである」。人間が弱者であることを盾に共同体へ堂々と救済を求め、救済不足を理由に共同体へ抗議することは異様としか言いようがない。

 このような弱者は、つねにいわゆるリベラル的な利益集団に利用される。社会の弱者を寄せ集め、強者の悪を糾弾するよう吹聴して回り、最終的に法制度を崩壊させ、いわゆる革命に便乗して新たな、より搾取的な特権階級として統治者の座に君臨するのが、共産主義者にほかならない。歴史に証明された共産主義や社会主義の悲劇はまだ足りぬのか。

 世界史を振り返るが良い。進歩を標榜する左翼が等しく富める国づくりに成功した事例はあったのだろうか。それよりも、共産主義者に虐殺された人数なら間違いなく、ギネス記録を他に譲ることはあるまい。

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