真の保守とは(3)~ペシミストと善悪論の持ち方

<前回>

 塩野七生「サイレント・マイノリティ~真の保守とは」読書雑感の最終回。

 「保守と認じている人々は総じて、人間一般に対してペシミストである。人間は皆、生まれる時は善人で、悪人は社会の所産であるとも思っていないし、善人もまた、何の努力をしないでも一生善人であり続けると思っていない。善であることは、言い換えれば、悪に染まらないことは、ほんのちょっとした個人の意思によることが多いと知っているからである」

 「人間は皆、生まれる時は善人で、悪人は社会の所産である」。という仮説が成立すれば、「社会を変革する」という結論が妥当する。歴史を振り返っていままで悪人を生まない社会はあったのだろうか。空気に含まれる雑菌やウェルスが病という悪を生むから、空気をすべて取り換えようとこれほど馬鹿なことはない。

 これと反対にキリスト教(西方教会)の原罪論も、怪しい。そもそも原罪論はパウロが「アダムが罪を犯し、それが全人類に受け継がれた」と勝手に言い出したところで、アウグスティヌスがそれを受け継ぎ、人間の「堕落性」を説き、原罪論を発展させたのだから、かなり人為的に作り出された説ではないかと思う。

 性善説と性悪説という2つの正反対命題に対し、さらにイスラム教では、そもそも人間の本性が善でも悪でもなく、弱なのだから、誘惑についつい負け罪を犯すのだという第三の命題を打ち出す。私はどちらかというと、この「性弱説」に同調するほうだ。

 人間は生物同様、自己保存の本能を有している。自己保存故に他者との資源争奪が不可避的に生じる。そこで秩序を構築するために、法律と道徳という二重の基準を設けざるを得ない。道徳という性善説的次元で問題がすべて解決できれば、法律も要らない。法律はそもそも性悪説をベースにしているのである。

 善を謳歌することを疑うことは、すなわち悪となる。そういう風潮が充満する世間、哲学に求められる「懐疑」という基本的姿勢は委縮し、善を謳歌する輩が横行する。そこで、善の真義を考えれば、やたら善を謳歌する輩の真意も自ずと見えてくるだろう。善という大義名分や美辞麗句の裏に隠されるのは、往々にして最悪の悪である。

 「善であることは、言い換えれば、悪に染まらないことは、ほんのちょっとした個人の意思によること」。まさに、その通りだ。人間一般に対してペシミストである保守主義者はつねに冷徹な視線をもち、醜悪に満ちた世界を正視している。

 「真・善・美」というが、客観的存在として認知できるのが「真」だけである。それが往々にして「悪」だったり、そして「醜」だったりする。

<終わり>

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