「先生業」にろくな人間はいない、先生と呼ばないで!

 コンサルタントを長くやっていると、皆さんに「先生」と呼ばれることが多い。しかし、私本人は、「先生」と呼ばれるのが好きではありません。2-3年前までには、「先生」と呼ばれるたびに、「すません、「さん付け」でお願いします」と、相手に一一矯正していましたが、にもかかわらず、それを忘れて、次また「立花先生・・・」と口が滑ってはすぐに、「あっ、ごめんなさい、立花さん・・・」と慌てて訂正する方もおられました。あまりにも、私が強引で失礼だと思って、「矯正」をやめました。時間が経つと、最近「先生」と呼ばれても、あまり違和感を持たなくなりました。しかし、内心では「先生」という呼び名に対する感情は、本質的に変わっていません。

 昨年、日本で開催された法律事務所関係のセミナーで、弁護士の「先生」たちの前で、この話を持ち出しました。

 「先生業に、ろくな人間はいない!」、すると、大手S弁護士事務所(日本)の有名なベテラン弁護士W先生がすぐさまに言い放しました。その場では、一瞬空気が凍りついた・・・

 少し、過激な言葉ではありますが、大変、考えさせられます。私は、このW先生が言ったことについて、二つの面から解読することができるのではないかと思いました。

 まず、「マイナス解読」です。いわゆる「先生業」に網羅される業種は、弁護士、医師、議員、コンサルタント、教授、講師、教師、学者などです。「先生」という漢字をそのまま分解すると、「先に生まれた人」となります。現代になると、年齢にあまり関係なくなり、広義的に、学識をもって、他人をリードし、指導する地位にある人を指すようになったようです。言ってみれば、「先生」は、品行方正で潔い人でなければなりません。しかし、現状は、どうも違います。議員や弁護士、医師に、不徳極まりない輩が増えているのは、実業界ならやむを得ないこととしても、あのもっとも潔いとされるアカデミックな学界でも、遺跡捏造や研究成果の盗用など不祥事が頻発しています。モラルの崩壊です。このような世の中ですので、「先生」という業種の人への軽信と付和雷同を慎むようにと呼びかける趣旨だったと思います。

 次は、「プラス解読」です。「ろくな人間」を、どう解読すべきか。プラス的に捉えると、とりわけ弁護士やコンサルタントについて言ってみれば、悪知恵を持った「並ではない人」、「凄い人」という風にも理解できます。ここが肝心です。「悪」とは何かです。殺人罪を犯した凶悪犯のために弁護する弁護士は、その有能さで、犯人は死刑を免れた。社会的世論や正義論からいえば、この弁護士が悪人の見方であるかのようにも見られる一方、プロフェッショナルの面からいうと、凄腕で同業者の弁護士たちに尊敬される存在になります。一般的社会の常識から捉える「ろくでなし」でも、プロのモラルという視点から見ると、英雄になったりします。

 結論は、一つです。どんな「先生」でも、プロとして、その必要な技能を超えて、クライアントの利益を守るという使命感とモラルを失った時点で、ただの「くず」になる・・・ 

 「先生」という名、「コンサルタント」という名に、大変な重みが込められていることは、W先生に学びました。大変感謝しています。昨今、資格職業である弁護士の数が増えつつある一方、それ以上に驚異的なスピードで急増しているのは、非資格職業のコンサルタントです。コンサルティング業の急成長ぶりを目の当たりにして懸念せずにいられません。特に、「中国コンサルタント」と名付ける人たちは、まさに玉石混交状態です。「玉石混交」とは、どういうことだろうか。コンサルタントを評価する尺度は、専門的な知識や技能、語学だけでなく、より中核的なものは、顧客企業の問題を解決できるかどうか、目的を達成できるかどうかです。もちろん、その前提は、顧客企業が問題意識と目的達成の意欲を持つことです。ですから、顧客企業や案件の状態によって、どんなコンサルタントも、「玉」になったり、「石」になったりします。経験を積んでいけば、より「玉」になる確率が上がり、いわゆるプロフェッショナルになっていくわけです。

 「100人くらいの患者を死なせて、はじめて名医になる」と、あるベテラン医師がこう言います。私個人的にも、コンサルタントとして、成功事例も失敗事例もたくさん持っています。成功すれば、顧客企業にとって「玉」になり、嬉しいのですが、失敗したとき、ただの「石」になってしまい、無性に悲しくなります。

 私がコンサルタントと自称して、はじめて営業で企業に行ったときのことを思い出します。「コンサルですか?貴方の事例を見せてください」と言われると、私は、「すみません、貴社は事例になります」と平気で言い放しました。何という酷いことだろう・・・

 ああ、なるほど、そういう意味で言えば、医者もコンサルタントも、先生業として「ろくでなし」ですね・・・

 一人でも開業できる、一人でも営業できる、起業のための設備投資がほとんど要らない、自分のカラダで稼ぐ・・・ 世の中に、これら条件を満たす職業は、概ね分けると2種類あります。コンサルタントや弁護士、芸術家、作家といった「上半身グループ」と売春という「下半身グループ」です。

 「売春」とは、「春を売る」。「春」とは、「活気」、「希望」の象徴。これで考えれば、「売春」というのは、プロフェッショナル性がなければ決して務まらないことが分かります。現に売春は、立派な産業としても、経済社会の一部を成しています。韓国刑事政策研究院の公表データによると、韓国では、2003年時点で24兆ウォン(約2兆4000億円)と国内総生産の約4%を売春業で占め、20歳以上の韓国人女性の25人に1人が売春婦だそうです。売春は、コンサルティング業に匹敵するか、それを上回る産業なのです。

 中国では、唐の時代に大規模な遊郭街があって、売春は一種の文化として開花していた。日本文化の多くは、中国の唐文化の影響を受けているといいます。売春も、中国の影響を受けてか室町時代に遊女たちが集う遊郭街が京の辻々に出現し、徳川時代になると、京都島原や江戸吉原に公認の遊郭街が出来上がったわけです。言ってみれば、古代の日本も中国も、売春というのが文化であって、産業であったため、売春婦が一種のプロフェッショナルとして社会に認められました。しかし、近代になると、多くの国では、売春が禁止されたり、制限されたりして、白昼堂々と語れるものではなくなりました。すると、売春婦そのものも、プロフェッショナルからアマチュアに変身し、社会の最底辺に転落し、文化の色もすっかり褪せてしまいました。

 歴史の潮流に逆らって、売春の合法化・公認化を求める趣旨ではありませんが、カラダ一つで稼ぐ業種としてのプロフェッショナル性の喪失ついて、残念に思います。

 少し、話が脱線しましたが・・・