歴史の見方「ed」と「ing」、後世の冷徹な理性は唯一ではない

 歴史の見方は概ね2通りある――。

 1つは後世の人間として歴史を過去式的に「ed」をつけて見、現在の視線で評価する方法。もう1つは当時の人間として歴史を現在進行形的に「ing」をつけて体感する方法。

 前者は評論家。歴史の結果は分かっているから、後付け的な論評「ed」を加えることもそう難しくない。では、遡って歴史の当時に置かれた場合、同じ結論を出せるのか、大きな声で言えるのか、「ing」の進行形で考えてほしい。

 歴史の「ing」的な見方は大変難しい。数十年前や数百年前の世界、その外部環境をリアルに作り出すことは不可能だからだ。いや、仮にそれが再現できたとしても、内的要素の「ing」という問題も横たわっている。

 自分自身でも、完全にリアルな自己史を体験しながらも、数年前数十年前のことを思い出して、ああ、あのときはこうすれば良かった、ああすれば良かったと後悔することがある。「後悔」とは自己史上の自己に対する「ed」的な内なる否定にほかならない。だったら、その当時なぜあんなことをしたのかと自己責任を追及すればいい。すると、「ing」的な背景や理由、時には自己正当化の弁解が色々と蘇る。

 後世の冷徹な理性は必要だと思うが、唯一ではない。故に「正しい歴史認識」といった主観などありはしない。それよりも「正しい歴史体験」という客観の再現がよほど有用である。

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