【Wedge】働き方改革(2)~「同一労働同一賃金」が格差を生むワケ

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 自らの働き方すら改革できない政治家に頼っていたら、働き方改革はいつまで経っても実現できない(参照:働き方改革の議論はなぜ進まないのか?)。だったら、民間企業はそれぞれ独自にやればいい。いや、そうしなければならない。

 そもそも労働法改正や労働(最低)基準の設定は政治家の仕事だが、働き方や働かせ方云々は企業レベルの話であり、企業内の労働政策や人事制度の改定は企業がそれぞれ自社の状況を見極めたうえで取り組むべき課題である。

● 「能力や経験」が同じでも「成果や貢献」が同じとは限らない

 2018年、国会で大きな論争を巻き起こした「働き方改革関連法」。「同一労働同一賃金」もその内の1つのアジェンダであり、大企業の場合は2020年4月、中小企業は2021年4月から適用する予定となっている。

「非正社員の基本給は、能力や経験が同じならば正社員と同じ支給を原則とする」としながらも、「正社員の待遇を引き下げて格差を解消することは望ましくない」とする厚生労働省の指針だが、アンチテーゼとなる場面が出てくる。それが原資の問題だ。原資不足の場合、2要件の同時満足はできないからだ。

 この2つの要件を見ると、どちらも「善」である。しかし、「善」と「善」の間にしばしば矛盾が生じる。その場合には、全局観に立った優先順位の決定が必要になり、片方の善を後回しにしたり、あるいは一時的に切り捨てるという現実的な「必要悪」の出番となる。この「必要悪」の引き受け手が現れないと、垂れ流される状況の悪化が進み、最終的にどちらの善も毀損され、最悪の場合は善の崩壊に至らしめる。

「非正社員の基本給は、能力や経験が同じならば正社員と同じ支給を原則とする」と「正社員の待遇を引き下げて格差を解消することは望ましくない」の2要件を吟味すると、前者は原則的正論であって、後者は既得利権層の代弁である、という本質が見えてくる。

 さらに掘り下げてみる。「能力や経験が同じならば」、イコール成果や貢献も同じになるのか。そこで外れ値が続出すれば、「成果や貢献」の異なる従業員に同じ給料を払っていいのか、という、それこそ「同一労働同一賃金」の本義が問われる議論になる。必要悪を含む本質から逃げ回り、二善的な、浮き足立った命題設定はそもそも議論に耐えられたものではない。

● 「同一労働同一賃金」が格差を生むワケ

 労働市場に絡んでもっともデリケートな問題は、「格差」である。日本社会は全般的に、格差に対して決して寛容ではない。格差すなわち悪という基調は甚だ明らかだ。

 格差をなくすという意味において、しばしば「同一労働同一賃金」の原則が持ち上げられる。しかし、その出自をよく調べると、正確には「同一価値労働同一報酬」と記載されていたことに気付くはずだ(国際労働機関(ILO)1951年の同一報酬条約(第100号)第1条(b)項) 。

「同一価値労働」の評価基準は、何であろうか。たとえば、同じ役職の課長で、同一大学を出て同期入社した営業1課の田中課長と営業2課の中村課長がいるとしよう。これを基準に田中さんと中村さんに同じ給料を払っていいのか。同一職位からは必ず同一価値の労働成果が生まれるかというと、実際に見てみないと分からないのだ。

 田中さんは外交的な人で営業に長けていてリーダーシップも素晴らしく、営業1課はつねにトップ業績を上げているものの、中村さんはどちらかというと、内気な人でどうも営業に弱く、彼が率いる営業2課の業績は振るわず社内の最下位になった。

 ここで業績という価値を基準にすれば、田中さんと中村さんに同一賃金を払っていたら、それは「同一価値労働同一賃金」の原則に反することになる。つまり田中さんと中村さんに賃金の格差をつけなければならなくなるということだ。

 このような場面に対処するのは大変難しい。「まあそうは言っても、中村さんも頑張ったんだから、差をつけられたら可哀想だ」という温情が入ると、原則に反して「平等」な賃金報酬が2人に払われることになってしまう。

 一方で、もし上司が心を鬼にして「同一価値労働同一賃金」の原則を厳格に運用すれば、間違いなく田中さんと中村さんの間に賃金の格差が生じることになる。労働の価値をどのように正確に評価するかという実務は大変複雑で、ここでは一旦これを棚上げにして、「格差」にフォーカスしてみたい。結果論として生まれる格差をどう考えるべきか、まさに日本人が逃げたくなるようなシリアスなテーマである。

 労働市場改革の最終的結果としては、少なくとも今以上の格差が生まれることはほぼ間違いないだろう。この格差は各企業内にも企業間にも生まれ、ひいては日本社会全体において格差は今よりも鮮明な形になるだろう。日本人ははたして、この種の格差を受け入れるための心の準備ができているのかと問われている。

 この問題をまず解決しなければ、議論はいつまでも上辺にとどまって本質的に先へ進まない。

● 「皆様のおかげ」と言わなければならない日本人

 会社というのは社会の縮図であり、日本企業も例に漏れず日本社会を如実に映し出す縮図になっている。日本社会のイデオロギーとは何か。社会人類学者の中根千枝氏がその名著『タテ社会の人間関係』(講談社現代新書)のなかでこう述べている――。

「……こうした日本的イデオロギーの底にあるものは、極端な、ある意味では素朴(プリミティブ)ともいえるような、人間平等主義(無差別悪平等ともいうものに通ずる、理性的立場からというよりは、感情的に要求されるもの)である。 これは西欧の伝統的な民主主義とは質的に異なるものであるが、日本人の好む民主主義とは、この人間平等主義に根ざしている」

「これは、すでに指摘した『能力差』を認めようとしない性向に密接に関係している。日本人は、たとえ、貧乏人でも、成功しない者でも、教育のない者でも(同等の能力をもっているということを前提としているから)、そうでない者と同等に扱われる権利があると信じこんでいる。そういう悪い状態にある者は、たまたま運が悪くて、恵まれなかったので、そうあるのであって、決して、自分の能力がないゆえではないと自他ともに認めなければいけないことになっている」

 だが、人間には能力差が存在している、という歴然たる事実がある。これが生来の不平等というならば、神の罪に帰結せざるを得なくなる。そもそも、不平等も格差も道徳観的な善悪には無縁であって、単なる「存在」にすぎないのである。しかし、能力差という事実を回避するために、格差を生む責任(罪)を何らかの外部要素に転嫁しなければならなくなる。その外部要素は政治だったり、社会だったり、企業だったり、あるいは法制度だったりする。

 能力差は何を意味するのか。能力差に善悪を規定することはまた何を意味するのか。結果論的にこの時代にそぐわない部分があることも、すでに悪果をもたらしていることも否定できない。ただし、日本社会に深く根ざした「能力差の認知回避現象」それ自体が歴史的文化的社会構造的次元から見れば必然的帰結であることは看過できない。農耕社会の出自をもつ日本では、能力差を明らかに認めることは、調和の毀損、ひいては社会の機能不全を引き起こす原因となるからだ。

 日本社会では、ある人がたとえ自分の能力で成功を収めた場合であっても、「皆様のおかげです」と言わなければならない。その原因はここにある。

● 能力主義の行き詰まり

 社会と同じ原理で、日本企業の内部においても「能力差」がタブー化されている。すると、能力に応じて行われる差異的処遇は「能力主義的差別」として断罪され、真の能力主義的人事制度や賃金制度も禁断の果実となる。結果的には企業内部においても「タテ社会」が出現し、年功序列ベースの人事が行われるのである。

 日本国内に起源するこの問題は、実は日本企業の海外経営現場で一層鮮明に映し出されている。外国人は日本社会の特徴や文化を本質的に理解していないし、理解しようともしない。能力差是認志向をもつ有能力人材は、日系企業に背を向けるようになり、たとえ入社したとしても2~3年ですぐ辞めてしまう。有能力人材である彼・彼女たちは能力差を明確に是認し、かつこれを評価し、賃金・待遇に反映させる人事制度を望んでいるからだ。

 その反面、相対的に能力の高くない人間は、ある意味で努力さえすれば、あるいは時と場所によっては努力しているふりさえすれば、温情的処遇を得られ、能力主義で社内競争の激しい欧米企業よりも日系企業のほうがはるかに居心地が良い。特に年長になり、年次を積み上げることによって得られる年功的利益がさらに大きい。一定の年齢を過ぎると、知識のアップデートが鈍化し、再就職の目処も立たないところで、日系企業はある種の天国になる。彼たちは絶対に会社を辞めないのだ。

 人間平等主義の日本社会で育った日本人にとって、「能力差」の存在を認知し、明言するほど辛いことはない。それはよく理解できる。このような日本社会を一朝一夕に革命的に変えようとしても失敗するだろうし、また変えるべきでもないと私は思う。たとえ変わったとしても、それは日本ではなくなるからだ。

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