【Wedge】「日本人に感謝」の裏に潜むファーウェイ副会長の本音~公開された日記に見る「論理破綻」

 ファーウェイは12月21日、カナダで逮捕された孟晩舟副会長(現在保釈中)の日記の一部を公開した。日記は、ある日本人から孟氏に宛てられた手紙に触れ、「世にも本当の人情が存在する」と讃え、情に訴えるものだった。私はネットでその日記の原文を探し当てたので、一部を抄訳する――。(原文参照:2018年12月21日付け「中財網」

● ある日本人が孟氏に宛てた手紙

「昨晩、ある日本人から私に宛てられた手紙で心が温まりました。繰り返しているように、世にも人情は存在します。危難に遭遇したときにも、面識の無かった多くの人が情を示してくれたことを知りました。

 保釈の日、法廷で手続を待っている間に、弁護士が教えてくれました。弁護士事務所に知り合いでもない多くの人から、保釈金のために自分の財産を提供したいとの電話がありました。個人的な知り合いでなくても、彼たちはファーウェイを知っています。ファーウェイを認めています。だから、彼たちは私を信用してくれたのです。弁護士曰く彼の40数年の弁護士人生の中でもこんなことは初めてだそうです。知り合いでもない他人のために担保を差し出すなんて考えられなかったからです。弁護士の話を聞いていると、私は涙があふれてくるのを止められなかった。自分のためではなく、こんな多くの人たちが私を信じてくれたことで泣きました。日本福島地震の時、私はちょうどアメリカのIBM本社にいました。1週間のワークショップの最中でした。(中略)アメリカをすぐ離れることができないため、孫総経理を日本に送り込みました。

(中略)一通り仕事を片付けたところで、私はすぐに東京行きの航空券を取りました。日本の支店に行くと、震災後の復旧作業、顧客のネットワークの修復とわれわれ自社の日常運営についてスタッフ全員と打ち合わせを行いました。私の日本出張に先立って、会社の緊急処理班はすでに機能していました。孫総経理も日本から帰国したばかりで、私には現地での実務作業がほとんど残されていませんでした。私は日本へ行き、震災後の業務対応を総括し、業務プロセスの確認を行いました。私自身もたくさんのメモを取りました。

(中略)このたびの経験は、私は後日もほとんど言及したことがありません。何も特に自慢できるものがなく、すべてが私の仕事だったからです。しかし、善は報われる。8年後のいま、ある普通の日本人からの手紙で私は報われたのです。無比な誇りと慰めで胸がいっぱいです。誇りは、あの時あれだけのリスクに直面しながらも、私は日本行きの飛行機に乗り込んだことから来ています。勇気とは恐れないことではなく、心の中に確固たる信念をもつことです。慰めとは、われわれの努力を神が見つめ続けていたことで、われわれが払ってきた努力は決して無駄にならなかったことです。

● 日本人が抱える「永遠の宿命」とは

 体裁的には「日記」よりも、対外的なブログ投稿に近い。前半の情に訴える部分には心に響くものが若干あったものの、後半ないし締めくくりの部分に至ってはナルシスト的な表現に一転し、どうも盛り下げる蛇足になったような気がする。まあ作文の巧拙は別として、それよりも、最終的に世間一般、あるいは日本人の目にこの胸中の告白はどう映ったのか。これに興味をもった。

 この日記を取り上げて報じた日本のメディアは、私が調べたところでは、日本経済新聞と時事通信の2社であった(ほかにあるかもしれないが)。

 日本経済新聞電子版は12月21日付けで「ファーウェイ、孟副会長の日記公開 日本からの激励に謝意」と題して報じた。果たして真実を反映した見出しであろうか。日記の前半を額面通りに受け取り、しかも、日本人の性善説的な視線からすれば、見出しに書かれた通りかもしれないが、原文の後半ないし結尾へ読み進めると、ニュアンスの変化に気付くはずだ。

 孟氏は自分がいかに「危険を冒して」、被災直後の日本へ旅立ったことを誇りに思っているかを、情緒的に表現した。業務遂行の作業場が被災地近辺かどうかは知らないが、本当のネットワークの修復作業に当たったのはファーウェイの従業員、あるいは請負業者だったのではないか。彼女は部下が一通り仕事を片付けた後に日本に「駆けつけた」のだった。もし、顧客が感謝を述べるのなら、ファーウェイ社に対してであって、彼女という一個人ではないはずだ。

「彼たちはファーウェイを知っています。ファーウェイを認めています。だから、彼たちは私を信用してくれたのです」と、孟氏の日記に記されているが、論理的な文脈にはなっていない。ファーウェイを認めているから、副会長の孟氏を信用する。このようなロジックは成立するのだろうか。立派な会社であっても、その経営者や幹部が犯罪に及ぶ事例は世の中枚挙にいとまがない。

 同日12月21日付けの時事通信の報道、「日本人の激励手紙に感動=ファーウェイ孟氏の日記公開」も基本的に日経記事と同じ基調であった。私はこれらのメディアを批判しているわけではない。むしろ日本人的な性善説からすれば、このような文脈は当たり前だと思っているからだ。しかし、日本から一歩出れば、外の世界は基本的に性悪説でできている。思考回路と現実のかい離は容易に消滅するものではない。むしろ日本人が抱える永遠の宿命なのだ。

● 「法」より「情」が優先される中国社会

 日本人の宿命といったらそこまでだが、何としてでもこれからの世界でサバイバルしていかなければならない。そんな日本人には何が必要なのか。「日本の常識」や「世界の非常識」が語られるなかで、ときには親和感のない思考回路や目線をもつことも大切ではないかと私は考える。

 今回はファーウェイに関連して、私はふとある古い報道記事を思い出した。中国の大手経済紙「第一財経日報」に掲載された1本の論説、「『情・理・法』と『法・理・情』」。その一節を訳出する――。

「中国大陸で20年以上も事業を経営してきたある香港人企業家が中国と香港の比較をする際にこう語った。中国大陸と香港は、どちらも法律、人情と道理を重視するが、ただしその順序と比重がまったく異なる。

 香港の順序は、『法・理・情』。まず法律を重視する。企業は法律の保障を得ながらも、これらをすべて使い切ることはしない。法律を見渡して(契約の)合理性があるかないか、さらに人情があるかないかを検討し、相手方がより納得して受け入れられるように工夫するのである。

 しかし、中国大陸の順序は、『情・理・法』。まずは情。親戚や知人、元上司がいるかどうかを見る。いると、理を語る番になる。理に適っていればいいのだが、理がない場合はどうするかというと、情さえあれば、無理して理を作り出し、理を積み上げ、『無理』を『有理』に変えていくのである。情があって、理があって、そこでやっと法の順番が回ってくる。法は重要だ。適法なら問題なし、みんながハッピー。違法の場合はどうするか。それでも大丈夫、法律ギリギリすれすれのグレーゾーンで何とかする。それでも難しいようであれば、みんなでリスクを冒して一緒に違法する。法は衆を責めず、法律は、みんなで破れば怖くない。

(中国大陸には)数え切れない『情』があって、説明し切れない『理』がある。これらが法の均一的な実施を妨害し、法体系を弱体化させ、規則の整合性を破壊する。法の実施は人治に依存し、人の主観によって規則も変わる。法治の躯体に人治の魂が吹き込まれ、法の形骸化に至らしめる。中国の社会や経済の矛盾は、法の意志を無視し、法治を基本ルートや最終的解決法としないところから生まれる。いわゆる人情や調和に価値を追求すればするほど、適正な目的に背馳し、縦横無尽な悪果を嘗め尽くすことになる」(以上引用・抄訳)

 孟氏の日記は、「日本でこんなに良いことをやったのだから、私は犯罪に及ぶ悪人ではない。人情のある善人だ。信用されてもいいはずだ」と言わんばかりのニュアンスである。しかし、既述した通り、文脈における主体である会社と個人、その所為の無関連性が明らかであって、論理がすでに破たんしていた。

 つまり、「情」に訴えようとしたところで、「理」が破たんしたのである。裏返せば、理がそもそも破たんしていたのだから、情に訴えざるを得なかった。そういう状況だったかもしれない。

 気がつけば、孟氏のカナダでの逮捕は法律案件であって、「法」次元の話ではないか。さらに言ってしまえば、量刑にあたっての情状酌量の段階でもないのに、「情」や「理」を差し挟む余地はないだろう。

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