神聖なるベーシックインカム、公平所与「時間」から生まれる不公平

 不公平だらけの世の中だが、1つだけ絶対的公平が存在する。それは、時間。すべての人間には同じ時間を与えられている。生来の才能や容姿や相続家財は不公平に付与された財産だとすれば、時間は神(仮に存在するとした場合)から支給される均一の収入、まさに神聖なるベーシックインカムといっても過言ではない。

 この収入の支配権も各人に均等に付与されている。給料を大事に使う人もいれば、湯水のように浪費する人もいる。時間の使い方も同じ。よく考えて効率よく使う人もいれば、無為に過ごしたり遊興にふけたり快楽に溺れたり時間を浪費する人もいる。

 一例を挙げると、フェイスブックのようなソーシャルメディアにたくさんの時間をかけている人がいる。それは時間の浪費だろうか。実はこの問題を私もよく考えている。確かにフェイスブックにはどうでもいいような情報が氾濫している一方、役に立つ情報もある。私自身も他人のコメントやシェアした情報で多く勉強になったことがある。

 ただ、1つだけ、総量比で有用な情報の占める割合が低いのも事実だ。スクロールで次から次へと無限に指が動いていると、それがつまり情報のフィルタリング作業が行われていることになる。その作業の効率はお世辞にも良いとは言えない。一人ひとりがフェイスブックに費やす時間というコストは決してそのまま消えるわけではない。それが積み上げられ、フェイスブックという企業の利益(資産)に転化していくのである。

 時間を含めてあらゆる「価値のプラットフォーム」は、複式簿記的取引であり、貸借平均の原理に基づいている。使った費用は自分の勘定からその分減るが、ただそのまま蒸発したりはしない。どこかに行くのである。使った時間というコストは、そのうちのどのくらいが有効な投資となり収益を生んでくれるのか。それよりもその大半はフェイスブックの収益となってその企業、その企業のオーナーの資産に転じていくと考えると、それでもスクロールする気になるのだろうか。

 フェイスブックのような新興企業のオーナーたちはけた違いの超金持ちで、それが不公平だという人も多い。でも、よく考えてほしい。それがもし「不公平」だとすれば、誰がそのような「不公平」を作り上げたのかということを。

 マルクス経済学は労働価値説に立脚する。剰余価値の「搾取」という概念が少々延伸すれば、フェイスブックのようなソーシャルメディアも類似したモデルといえないだろうか。ただ、マルクスの時代と根本的に異なるところがある。それは労働者側の受動的かつ不本意ながらの「被搾取」ではなくなり、ソーシャルメディアのユーザーが自分の意思によって時間という価値を差し出している以上、フェイスブックを道徳的に指弾できるものではない。

 公平で、神聖なるベーシックインカムである「時間」から生まれる「不公平」。そこからこの世の不変なるメカニズムが見えてくる。

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