「上から目線」と「下から目線」

 「上から目線を感じたら、その目線に合わせて自分が上に向けて行こう」

 というのが私の主義だ。上から目線というのは、いろいろある。確かに自分よりも立場が上で、尊敬に値する人ならいいが、大体「上から目線」と捉え不快に感じたら、そうでないときがしばしば。たとえば、相手が傲慢だったり。傲慢といっても、虚勢を張っての傲慢、自信があっての傲慢、こちらから勝手に感じた傲慢などいろいろある。

 要するに、なぜ「上から目線」をこちらから感じたのか、まずは自分なりに分析しよう。仮説を立てて分析することだ。その作業自体が一種の勉強になる。とてもいい勉強で、頭の体操になる。思考力が一段と上がれば、それはつまり自分が一歩二歩上に向けて歩き出したことを意味する。

 「上から目線」とは相手から見下されたという感覚である。なぜそう感じたのかという分析をするといったが、では、上から目線を感じなかったときは見下されないことを意味するのか。相手の心の中で見下され、軽蔑されているのに、上辺だけニコニコと微笑みの社交辞令ないし同調、ときには「下から目線」すら感じてしまう。それだけでいいのだろうか。

 そう、私がいいたいのは「上から目線」よりも「下から目線」がはるかに要注意であることだ。それは、「下から目線」のほうがはるかに複雑だからだ。本当に尊敬されての「下から目線」もあるが、そうでないときもある。下心を隠された「下から目線」だってある。もちろん「下から目線」の分析も可能だが、作業ははるかに複雑である。さらにいうと、人間は誰もが本能的に「下から目線」を欲しがるから、それが勉強の阻害要因になっている。

 金銭や権力が手に入り、立場が上に行けば行くほど「下から目線」が増える。その見分け作業に高度な技術と意志力を必要とする。いわゆる「帝王学」の範疇に入る。という意味で、まず一般人や初心者は入門編として「上から目線」を勉強の材料にすることを推奨する。

 私自身も「上から目線」の学習者の1人である。

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