階級格差と下層救済の関係、ルサンチマンから生まれるものとは?

 ずいぶん前にイギリス人の友人に教わったことだが、格差をなくして下層を救済するのではなく、格差をもって下層を救済するのである。

 上層階級はルサンチマンの攻撃対象ではなく、下層救済に取り組み、尊敬されるべき存在として認知されるのが前提だ。さらにいってしまえば、上下関係や階級の存在がその前提の前提となる。昨今の日本社会では国民間の上下関係というだけで叩かれるため、議論にすらなり得ない。

 清貧や弱者が善とされた時点で、富の所有が相対悪と位置付けられる。日本の富裕層ほど「日陰者」はいない。少々派手に金を使うだけで嫌味を言われ、批判され、時には指弾される。贅沢に金を使うことはそんな悪いことなのだろうか。社会の経済に貢献する立派な消費行為ではなかろうか。

 これは世間下層民のルサンチマンに由来するものである。欧米でもルサンチマンはあるが、この問題をある程度緩和、解決してくれるのが宗教である。彼岸(死後)の天国や地獄たるものが現世の利益関係を調整してくれるからだ。しかし日本人はこの種の宗教を持たないから、問題が直ちに此岸(現世)に現れる。

 欧米社会では、「ノブレス・オブリージュ」という概念が存在する。直訳すると「高貴さは(義務を)強制する」を意味し、一般的に財産、権力、社会的地位の保持には義務が伴うことを指す。ただし、この種の義務は法律上のものではなく、道徳上のものである。つまり法的拘束力がないわけだ。

 そもそも、法的拘束力に依存した時点で、「高貴さ」が弱化し、消滅する。富の再配分はどんな社会にも必要だ。租税という法定義務はツールとして一定の効用を有しているが、法的拘束力がもたれる以上、受動的義務に成り下がったことは否めない。富の再配分は上層階級の能動的義務として寄付や援助などの形になれば、主体性が一気に増強する。それに付随する高貴さも体現される。

 とはいっても、法的強制力がない故に、「ノブレス・オブリージュ」を履行しない者も出てくるだろう。そこで、制裁措置が必要になってくる。下層救済のできない上層者は、それのできる上層に軽蔑され、上層同士に村八分にされる。要するに「高貴さ」を失ったことによって、所属階級から駆逐されるということだ。

 日本人は世界的に見ても大変心優しい民族だ。もし、日本にもこのような社会システムが導入され、定着すれば、根拠のない推測だが、私は多くの善良な上層階級構成員が下層救済に取り組んでくれるだろうと見ている。その前提はやはり大衆や下層民が上層階級に対して「階級闘争」的な姿勢を放棄することだ。ただこれは今の日本社会を見る限り、不可能とも思える。「みんなが一緒」だから。

 「みんなが一緒」という戦後の50年はおそらく世界史上でも、きわめて例外的な時代だったのではないか。その時代がこれからも継続していくことが日本人にとって最善ではあるが、どうも現実的に不可能という結果がすでに明らかになった。であれば、格差社会に道徳論的な善悪評価を施すこと自体が馬鹿馬鹿しくなる。「地震は悪だ。地震をなくせ」と叫ぶのと同じように馬鹿馬鹿しい。

 富裕層やエリート層は階級闘争を嫌って、日本から逃げ出す。彼たちの富と知恵と一緒にだ。有能な外国人も日本にやってこない。日本は平等社会のまま維持されるが、等しく貧しい社会、途上国に転落していく。途上国といっても、物が貧しくても心豊かな途上国がアジアやアフリカにあるのだが、日本の場合はこのままいくと、おそらく物心ともに貧しい途上国になるだろう。

 ルサンチマンや階級闘争意識からは、決して富が生まれない。

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