『醜い日本人』という本を書こう

 日本人は、会社の中のポジション取りに熱心だが、社会の中のポジション取りには無関心。日本人にとって、会社は社会、社会は宇宙。スケールが小さい故に、視座が低くなり、俯瞰ができなくなる。

 『醜い日本人』という本を書こうと、計画を立て始めた。

● 日本はなぜ没落するのか?

 フェイスブックなどSNSへの投稿や書き込みコメントからは、その人の思考経路が見えてくる。思考の有無、思考の品質。地頭、環境、教育などといった影響要素が存在する。もちろん心理要素も絡んでいる。独裁専制より民主主義国家では、いわゆる言論の自由が許されるだけに、「馬鹿丸出し」の露出度も高い。

 大衆は民主制に便乗して権利主張が日に日に増す一方、権利に対置される義務やリスク、コストには無感のままでいる。愚の顕在化は、民主主義の特徴である。統治のニーズ、既得権益のニーズ、そして大衆の心理的ニーズという3つのニーズを総合的に捉えるメディアの姿勢は、それなりに特化せざるを得ない。つまり、左右を超えて、愚への偏向である。

 民主主義も独裁専制も共通しているのは、大衆から「思考の自由」を奪うことだ。円滑な支配には、大衆に深く考えてもらっては困るのだ。「思考の不自由」と「言論の自由」の結合から、大衆の馬鹿論壇という奇形児が生まれ、それが民主主義の独裁を支えている。

 保守陣営も、似非保守が大半を占めている。保守とは何かすらわかっていない大衆は、反中・親米・自民党支持といった符号を追いかけるだけの様相を呈している。日本の国益に合致する政策なら、何党であれ、支持するのは真の保守だ。「Who」ではなく、「What」だ。Whatの判断力を持たない者はWhoに行く。それが民主主義の幼稚性。

 日本の没落は、悪の左翼と愚の右翼による合作だ。誠にバランスが良い。特に後者の罪が重い。無知で符号だけを求め、保守の本質も真の国益も見捨て、個人ベースの不満のはけ口、負け犬の遠吠え、傷の舐め合いでただの馬鹿集団である似非保守が日本国を地獄に落れようとしている。

● 失敗の総括ができない日本人

 失敗の総括ができないのが、日本人の悪習、いや劣等性である。

 太平洋戦争についても同じ。被害あっての加害、加害あっての被害。日本はどんな被害を受けて戦争の加害者になったのか(そして今日のロシアにも同じことが言える)。そして、戦争発動の加害性と原爆の被害性、加害と被害の可転換性を客観的に総括していない。さらにその延長線上に原爆の加害者であるアメリカへの追随も論理的に説明できていない。

 都合の悪いところを切り捨て、都合の良いところだけを拾い上げるのは、日本人。論理性を無視して行動の合理化に適当な解釈を作り上げ、辻褄を合わせる。その繰り返しだ。国民全員が勇気を持って責任を取ることができない。民主主義に便乗して権利だけを主張する日本人は、無責任極まりない。

 戦前・戦中の朝日新聞が戦後に豹変するように、日本人も豹変する。今後の展開では、日本が米国の属国から中国の属国に変わっても、ころりと変わって日本人は中国の飼い犬になるだろう。やっぱり文化のルーツを共有しているだけに融合が相応しいとか、理屈はいくらでも合わせられる。

 日本人は右から左へ、左から右へといつでも転向できる。集団が転向すれば、個人も転向する。集団のなかのポジション取りだけが重要で、個人の原理原則などはどうでもいい。

● 醜い日本人

 そういう意味で、日本人は醜い。隣国の韓国や中国の不道徳なんて批判できる身ではない。我が身の醜態を知れ!日本人よ。『醜い日本人』という本を書いて中国や韓国、もちろん日本で出版しようと本気で考えている。今回の中国出張でまず企画を出版社に持ち込もうと決意した。

 柏楊氏の『醜い中国人』は良い作品だ。ただ、中国人が醜いことは決して、日本人が美しいことを意味しない。人はみんな醜いのだ。中国人と異なる種の醜さを日本人が持っているのだから、それを書きたい。

 『醜い日本人』という本を書こうとフェイスブックに投稿すると、案の定、「日本人一括」には違和感を抱くとのコメントがやってきた――。笑うに笑えない。「日本人÷1億」が正確なら、性格診断になってしまう。大体、序章にまず「日本人とは」「醜いとは」類いの規定が出てくるだろう。

 こういうピピっと脊髄反射する日本人は、まさに醜いまでいかなくとも、美しいとは言えない部類である。いうならば、「日本人は礼儀正しい」「日本人の職人気質」類いの規定にも、「日本人一括り」の問題はないのか。良いところだけは便乗するが、都合が悪くなると逃げる。いろんなところで表出している。

タグ: