自然体で人に語りかける、スピーチの醍醐味

 今日はセミナー(中国語)の日、午後半日の講義、ここ数年マラソン講演にすっかり慣れたせいかあまり疲労を感じない。

 私は基本的に、まったく原稿を見ないでしゃべる主義である。そもそも原稿たるものはない。一応、レジュメに沿って、話をするが、同じコースでも、そのときの雰囲気や質問、受講者の関心度によって内容が若干異なったりする。

46935_211月24日上海セミナー風景(花園飯店)

 あと、パワーポイント全盛期というのに、私はパワーポイントが嫌いだ。まず、一部消灯のせいで、場内が暗くなるし、暗い中、いつのまにかスクリーンに映るポインターの赤い点が主役になってしまう。すると、全員の目線が赤い点を追っている。それが本末転倒だ。あくまでも、聴衆と講演者が主役であって、アイコンタクトも含めて完全なるインタラクティブな対話があってこそ、真の講演会である。

 私もいろいろなセミナー、講義に出ているが、印象深い講演者がいても、記憶に残るパワーポイントのページは皆無だ。現代には、新しいツールがどんどん世に送り出されている。便利になる一方、もともとわれわれ人間が持っている魅力が一つ一つ取って代わられ、無味乾燥な世界が広がる今日に至った。

 スピーチといえば、戦場で戦った永遠のライバル、チャーチルとヒトラー。二人とも、歴史に残る名スピーカーだ。あの時代に、パワーポイントがあったら、このような名スピーカーも生まれなかっただろう。

 日本人は総じてスピーチが得意ではない。日本人の最悪なスピーチを見たければ、選挙スピーチと国会中継を見るとよい。嘘をつくにもロジックがうまく出来ていないし、目がうつろになって「私が嘘つきだ」と訴える政治家も少なくない。

 会議を前に、アジェンダに沿って、入念に予行演習をする人もいる。私は、それがとても苦手だ。決まった枠組みでしゃべることがもっとも不得意である。ついつい自分も説得力がないと思えてしまう。

 朝、目覚めて窓を開けると、小鳥のさえずりとやさしく部屋に吹き込んだ風、頭の中が一瞬にしてひらめく。よし、今日はこれでいこうと、その日の講演の切り口が決まる。雨がしとしと降る日なら、また別のひらめきがあったりする。

46935_311月24日上海セミナー風景(花園飯店)

 講演は、絶対に原稿を作らないこと。原稿にちらちら目を落とすと気が散って、いい講演にはならない。ポイントだけ、A4一枚にまとめればそれで十分だ。私にとって一番困ることは、「中国の労働法、人事現場の概況と企業の注意点を2時間ほどのスピーチにまとめて話をしてくれませんか」といったような講演依頼だ。その主題を一通り休まずにしゃべったら、まる2日はかかる。それを2時間に凝縮するのがしょせん無理な話だ。そのとき、その企業にとってもっとも重要なポイントを一つだけピックアップして、比較的に深く掘り下げて話をすることにしている。

 「立花さんは、早稲田ですよね。もしかすると、あの雄弁会出身」と聞かれたりするが、まったく違う。大学時代もサラリーマン時代も私は人前でスピーチするのがとても怖くて下手だった。コンサルタントになると、人前でしゃべれなかったら死活問題だ。必死でしゃべろうとした。最初は、1時間半の講演会のために十数ページの講演原稿まで用意していた。一本調子で面白くない。自分もそう思った。だんだん少しずつ良くなってきたようだ。復旦大学留学中に、刑法の名教授に言われた。「講演は原稿要らないだろう。原稿なしでやりなさい。必ずうまくなるよ」

 恐れ恐れ原稿を捨てたものの、不思議にも自然にしゃべれたものだ。以来、原稿なし、その後パワーポイントなしの講演に取り組んできた。自然体で人に語りかける喜びを知った今日では、もうスピーチが病みつきになってやめられない。

 自然体。嘘をつかない。自分の考え方を論理的に、ストレートに、語りかける。結論をはっきりさせる。知らないことは、知らないと明言する。間違っていたら、謝る。

 まだまだ発展途上だが、私の講演術である。