● 大衆による司法批判と民主主義の限界
「検察庁に放火して燃やしてしまえ」。――台湾第2野党の民衆党は1月11日、収賄罪などで起訴された柯文哲前党首の保釈を求める大規模集会を開き、この集会で講演者がこう叫ぶ。犯罪扇動、法の支配の否定、それこそ民主主義の破壊行為ではないか。私が繰り返しているように、民主主義制度の問題は、大衆の民度の問題だ。
「不法逮捕」「不法拘留」。――ソウル拘置所前では尹錫悦大統領の支持派らは、声を枯らして叫ぶ。法律のほの字も知らないこの素人たちは、民主主義国家の司法を「不法扱い」すること自体が「無法」である。いわゆる「民意」が司法に介入することは、法治社会では許されない。民主主義を破壊するのは、愚民・暴民である。
直近の台湾野党党首収監と韓国大統領逮捕。それぞれの主張ーー。
台湾: 与党による司法権濫用(与党独裁)。
韓国: 野党による司法権濫用(野党独裁)。
結論: 民主主義国家の中核となる法の支配が崩壊し、民主主義は機能不全に陥り、独裁化が進んでいる。私が主張してきた「民主主義は独裁の一種」は実証されつつある。
尹錫悦・韓国大統領は逮捕にあたって、「法律がすでに瓦解した」と声明を発表。それが本当ならば、民主主義の核心となる法の支配の崩壊を示唆するものである。それが嘘ならば、民主主義投票制度で選ばれた大統領が法の支配を踏み躙ることを意味する。どちらも、民主主義の崩壊と言い換えても差し支えない。
最近、多くの国で一般庶民がカメラの前で堂々と検察や裁判所を「不法」「不公正」と批判する場面を目にすることが増えた。法律の専門知識を持たない一般市民が、なぜ平然と司法を批判できるのか。この現象こそが法の支配、さらには民主主義そのものを破壊する元凶ではないだろうか。
いわく「司法が政治に悪用されている」。これもよく耳にする。この主張が本当であるならば、それは法の支配が機能不全に陥り、ひいては民主主義自体が正常に機能していないことを意味する。この現象を一概に「司法の問題」と片付けることはできない。その背景には、民主主義の根本的な構造的欠陥が潜んでいる。
民主主義国家においては、法は公平かつ中立であるべきだとされている。しかし、実際には「政治が法律を支配する」構造が存在する。これは独裁権威主義体制でも同じで、支配の形態が異なるだけで本質は変わらない。法律が政治の道具と化したとき、司法はその独立性を失い、特定の政治勢力の利益を優先するようになる。
民主主義の特徴として、誰もが自由に意見を述べる権利が保証されている。しかし、この権利が「知識や根拠に基づかない発言」によって行使されると、司法や法律への不信が拡大する。市民が「不法」「不公正」と声高に批判することで、司法への信頼はさらに低下し、法の支配が揺らぐ悪循環に陥る。
民主主義の前提は市民の成熟した思考力と判断力、何よりも自由・権利と責任・義務の対等意識にある。しかし、現実には多くの市民すなわち「無知な大衆」が法律や政治の仕組みを十分に理解しておらず、論理的思考力と判断力が乏しいまま、感情的な反応やメディアの影響を受けてしまう。これが問題の根源である。
「法の支配」を基盤とする民主主義は、理想としては非常に優れた制度である。しかし、実際には限界が存在する。今、私たちはその限界を見せつけられている。
最後に付け加えるが、頭ガチガチな学者が多すぎる。自由・民主主義と独裁・社会主義という対立する二元論にはまっている。現実の世界はグラデーションである。民主主義は多元性や包摂力を標榜しているが、二元論構図を前提にした時点で既に自己否定に陥っている。逆に専制権威主義体制のほうが民主主義との共存を認めているだけに、自信を見せている。専制権威主義は民主主義や資本主義から学んでいるが、その反対は見られない。
「民主主義を守る」という。滅びそうだから、守る必要があるわけだ。僅か5年で地球上の民主主義人口が50%から30%を切るようになった。ダーウィンの説によれば、民主主義はもはや環境に適応できない絶滅危惧種である。最近流行りの言葉だと、サステナブル。最も持続不可なのは、民主主義制度ではないだろうか。民主主義を滅ぼすのは、他でなく、民衆そのものである。

● 無免許民主主義制度の歪み
弁護士や医師同様、政治家は高度技能職である。しかし、専門試験や資格どころか、素人軍団、個益軍団、訳の分からない者軍団に選ばれると。だから、政権交代しても、何も変わらない。「あなたの1票を政治を変えよう」というのは真っ赤な嘘。政治を変えるのは、1票の積み上げではなく、1ドルの積み上げである。
さらにいうと、高度高齢化社会の1人1票では、若者に著しく不公平だ。高齢者は、免許証返上だけでなく、少なくとも0.5票を返上すると、制度化すべきだ。
● 民主主義とマーケティング
私は民主主義が劇場型政治であると批判している。しかし、なぜそのような民主主義に対して興味津々で観察しているのか、と問われることがある。その理由は明確であり、私はこれを単なる政治的好奇心や娯楽のためではなく、マーケティングの事例として集め、研究に活用しているからである。
民主主義は、まさに劇場のような要素を持つ。大衆を惹きつけるためのパフォーマンスや演出が行われ、感情や印象が意思決定に大きな影響を与える。そのため、マーケティングの視点から見れば、これほどまでに豊富な実例が集まる分野は少ない。選挙運動や政策のプロモーション活動から政治家個人個人の言行、大衆の反応や行動まで、すべてが生きた事例として高い研究価値を持つ。
また、このような劇場型政治の分析は、行動心理学や社会心理学といった学問領域とも深く結びついている。例えば、候補者のスピーチやデータの提示がどのようにして大衆の意見を動かすのか、その背後にある心理的なメカニズムを解明することが可能である。
さらに、劇場型政治が持つエンターテイメント性は、観察と分析を進める上での動機にもなる。観察対象として非常に動的であり、リアルタイムでその影響が測定可能であるため、研究にとって都合がよい。このような状況下で得られるデータは、単なる批判に留まらず、学問的・実務的に価値のある成果を生む基盤となる。
したがって、私は民主主義の劇場型政治に対して批判的な視点を持ちながらも、その現象を冷静かつ科学的に分析している。これは、より広い視野で社会の動向を理解し、また実務におけるマーケティング戦略を向上させるための研究活動の一環である。一石二鳥、生産性が抜群によろしい。
今の時代は、情報が溢れている。情報の供給が需要を大きく大きく上回っている。需要が減ったわけではない。供給の増加、正確にいうと情報生産者の急増にはとても追いつかないからだ。一般商品と違って、情報の消費者自身が生産者になれるから、タチが悪い。情報発信は、承認欲求の満足につながるため、個人メディアが増える一方だ。
大変なのは、熾烈な競争を強いられる固有の伝統メディアである。読者や視聴者を繋ぎ止めるための有効な方法は、読者や視聴者の聞きたい話をすることだ。
人間は大体、自分の認識や観点、希望、期待、価値観と一致する情報を知りたがる。確証バイアスが常にかかっている。不一致な情報(反証)に拒絶反応を示し、それを「偏向報道」と位置づける。すると、程度の差があるが、大手を含めてほとんどのメディアは特定の顧客層向けのコンテンツを制作し発信するようになった。つまり、メディア全体の中立性が大幅に低下している。それだけでなく、メディアそれ自体も知らないうちに、論理性を失ってしまう。
例を挙げよう。2025年1月7日付日本経済新聞オンライン『中国を襲う「新しい階級闘争」 習近平政権を待つ難路』では、こういう論説(抜粋)を並べている――。
「グローバル化の波に乗った人とそれ以外の人とで、格差は広がっていた。それでも、貧しい人たちは生活水準が少しずつ上がるのをまだ実感できた時期だ。共産党にとって社会の安定を乱す最大の敵は、一党支配に異を唱え、民主化を求める人たちだった。……政治と経済を動かすエスタブリッシュメント(支配層)と、グローバル化の恩恵から取り残された庶民の対立を『新しい階級闘争』と呼んだのは米国の政治学者、マイケル・リンド氏である。中国でも、時間を置いて『新しい階級闘争』が始まったのかもしれない」
日経が自ら矛盾(論理性の欠如)を曝け出した。グローバル化による階級分断と闘争はその通りだ。しかし民主主義国家も同じ。つまり民主化が階級闘争を無くす薬ではない。階級問題は政治体制と関係ない。地球上から階級は消えない。
● 日米中の関係
親米しても得しない。反中したら損する。――この現状を是正するのが石破政権の外交政策。イデオロギーよりも実利主義。意外にもトランプと共通している。
バイデンが1月13日のさよなら演説で、「中国は永遠にアメリカを超えることはない」と語った。これに対して中国はこう答えた。「中国はアメリカを越えようと一度も考えたことがない。中国は常に自己超越、自分を越えようと努力している」
中国はすでにアメリカを超えている。と、私はそう思った。哲学のある者とない者は、次元が違いすぎる。




