<雑論>少数者の言葉、伊藤貫と佐藤優が支持されない理由 / 参政党が盛り上がっている / 「日本共産党」に脊髄反射する日本人

● 少数者の言葉、伊藤貫と佐藤優が支持されない理由

 伊藤貫と佐藤優。この二人の言論人は、知の世界において極めて異質であり、同時に貴重な存在である。にもかかわらず、彼らの言説が大衆的な支持を得ることはない。メディアに頻繁に登場するわけでもなく、SNSでバズるような軽薄な発言をするわけでもない。だが、読むに値する知的価値を保ち続けている。

 彼らの共通点は、世間の空気に迎合しないことである。伊藤は地政学と戦略思想に基づく冷徹なリアリストであり、アメリカの覇権構造と日本の従属状態を容赦なく暴く。佐藤は宗教思想、外交実務、国家の深層構造に精通し、「正義」や「道徳」では説明できない現実を言語化する。どちらも、大衆が見たくない現実を語る者である。したがって、彼らの言葉はウケない。だが、響く者には深く突き刺さる。

 思考するためには、前提知識と構造理解が必要である。伊藤や佐藤のテキストは、その条件を満たさなければ歯が立たない。結果として、彼らのファン層は限られ、絶対数は少ない。しかし、それは欠点ではなく、むしろ選別機能である。思考体力のある者しか彼らの世界に入ってこられないという構造こそが、逆説的に彼らの信頼性を担保している。

 伊藤も佐藤も、イデオロギーに回収されない。伊藤は保守とも親米派とも一線を画し、「日本はアメリカの属国であり、戦略的思考の欠如が致命的だ」と語る。佐藤は一方で国家のリアルを語り、他方で神学的世界観を語る。彼らは「右」や「左」に収まらず、知の本質において横断的である。だからこそ、レッテル化や商品化ができない。その結果、マスには流通しない

 このような知識人が少数派であるという事実は、むしろ社会にとって健全である。大衆は心地よい言葉を好む。だが現実は、不快で、複雑で、矛盾に満ちている。それを直視する勇気のある者だけが、伊藤や佐藤の言葉に耐えることができる。言い換えれば、彼らの読者は少数であるが、密度が高い。そして、その少数こそが、変化の起点となりうる。

 「声が大きい者」が勝者になるのではない。「本質を見抜く者」だけが、生き残る。

● 参政党が盛り上がっている

 参政党の一番の主要主張を一言で言えば、「教育」。「政治の問題は、結局“国民の無知”にあるため、教育を通じて真実を知る国民を増やす、自立した思考ができる人を育てる」と。しかし、「教育」という言葉の中身が曖昧。どのレベルで、誰が、どう変えるのか?

 教育だけでほとんどの人は変わらない。教育によって大多数の大衆の知性を引き上げることは、理論上は可能であっても、実際にはほぼ不可能である。なぜなら、大衆の多くは能動的に学ぶ意志を持たず、与えられた情報を受動的に消費し、時にそれを誤用すらするからである。

 あえて教育に国家資源を投下するのであれば、それは万人への横並び的な配分ではなく、少数の選抜層――すなわちエリート層――への重点投資が最も合理的である。エリートに高度な教育を施し、彼らをして国家の設計と運営を担わせる体制こそ、近代国家が現実的に採り得る最適解の一つである。

 その意味で、現代の民主主義、とりわけ「一人一票」という均一的投票制度は、非合理の極みである。知性や判断力、責任感に明らかな格差が存在するにもかかわらず、全ての個人に等しい政治的発言権を与えること自体が、制度的誤謬なのである。

 したがって、参政党が掲げる「教育による国民の覚醒」という主張は、理念としては正しい。しかし、それを万人に等しく適用し、全体を底上げするという構想には現実性が乏しい。

 むしろ、方向性としてはシンガポール型に代表される、選抜的なエリート教育制度と、一定程度の大衆政治参加制限を併せ持つ体制こそが、将来的な持続可能性と統治効率の両立を可能にするのである。

 これは民主主義の再定義、あるいはポスト民主主義の体制構築への布石とも言えよう。

 参政党に人気が出ている。それはたった一つの事象を示唆しているーー純朴な愚民が多いこと。「反グローバリズム」も一つの事例。「グローバリズムをやめたら、日本はどうなる?」というシナリオを描けば、政策は実行不能であることが明らかになる。しかし、純朴な愚民は、この簡単な思考転換作業ができない。「グローバリズム消滅」とは「共産主義実現」と同じ幻想、妄想である。

 参政党の「グローバリズム=日本人を貧しくした元凶」という主張は成り立たない。グローバリズムを「撤去」すれば、日本人は豊かになれるのか?むしろ、日本はもっと困窮する。いや困窮ではなく、生活が持たないし、文明が崩壊する。この話について、SNSで「『グローバリズム』の本当の定義とは何か」という素晴らしい質問をいただいた。概念の定義を問うというアプローチに拍手を送りたい。

 参政党が言う「グローバリズムが日本人を貧しくした」という主張における「グローバリズム」の定義は、学術的定義とはいささか異なり、かなり政治的・感情的に加工された独自のイデオロギー的意味合いを持っています。こんな文脈ではないかと。

 グローバリズム(自由化・多国籍・国際主義)
    ↓
 産業の海外移転・外資の参入・外国人労働者・規制緩和
    ↓
 日本の雇用破壊・家族崩壊・伝統喪失
    ↓
 日本人が貧しく、不幸になった

 つまり、「生活苦」は外的要因のせいだ、という外因論・被害者意識に基づくナラティブである。では、グローバリズムを止めようと、海外に持って行った工場を日本へ戻して(生産拠点の国内回帰=リショアリング)、日本人は現場のワーカーになって働きますか?さらに、食料輸入をやめようと、荒廃した農地を蘇らせたら、日本人は喜んで地方に戻り、汗水垂らして農家になって働きますか?

 回答はいずれも「NO」である。日本人は、グローバリズムに反しながらも、グローバリズムに頼り切って食い繋いでいる。ここの「グローバリズム」を「中国」に置き換えても同じである。

 参政党を信じる純朴な愚民たち。なぜそんな非現実的な政策に、人々は惹かれるのか。それは、参政党が「感情」を代弁してくれるからである――。「なんか最近、暮らしが苦しい」「日本が弱くなってきた気がする」。そうした漠然とした不満に、「悪いのは外国だ」「政治家だ」「グローバリストだ」と、分かりやすい敵をあてがってくれる

 考える必要がない。自分が悪くないと思える。これほど気持ちのよいことはない。参政党は、政策で国を変えるのではない。政策という名のエンタメで、愚民のストレスを消化させるのである。つまり、彼らが売っているのは「政治」ではなく「カタルシス」であり、「構想」ではなく「代弁」である。

 そして最も皮肉なのは、彼らが「実現できない政策」だからこそ、ますます拍手喝采を浴びるという構造だ。やってしまえば責任が問われる。やらないからこそ、夢を語れる。それはまるで、ダイエットしない人が語る「理想の体型」と同じである。やる気もないのに語るからこそ、理想は美しい。

 グローバリズムの否定は、共産主義の実現と同じである。可能性ではなく、幻想である。それを見抜けないほど、国民の知性は落ちている。だから参政党は人気を得る。それは「純朴な愚民が多い」という、ただ一つの事実を証明しているにすぎない。

● 「日本共産党」に脊髄反射する日本人

 大方の日本人は、「日本共産党」という名称にまず脊髄反射する。私は政党よりも、政策を見る。日本共産党が主張する対米追従からの自主外交路線には、私は大賛成だ。

 「対等平等な日米関係」は「反米」ではなく、「自立した外交安全保障」を志向する姿勢であり、戦後日本がアメリカに依存してきた構造への批判という点で、「保守」的ナショナリズムとも交差する。むしろ、自民党よりも素晴らしい政策志向だと思う。さらに、マルクス理論は、哲学的な方法論として、私はよく使っているし、優れものだと思っている。

 社会主義を目指すという日本共産党の主張については、賛同できない。日本はある意味ですでに社会主義国家になっていることを無視しているからだ。

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