私は20代の若き頃、無条件に民主主義を信奉していた。90年代前半、冷戦は終結し、「自由と民主主義こそが人類の最終解答だ」と信じ込まされていた。旧ソ連や東欧の崩壊、西側の繁栄、リベラルな価値観の拡散――どれを見ても、それに疑問を抱く余地はなかった。
だが30代に入り、その熱狂は少しずつ冷めていく。この時代、まだSNSもない。情報はテレビ、新聞、雑誌という限られたフィルターを通じて流通していた。まさに「選ばれた者」が世論を操作し、「言うべきこと」と「言ってはいけないこと」を巧妙に仕分けしていた。民主主義国家であるはずの社会に、見えざる言論統制が存在していた。それに気づいたとき、私は初めて民主主義に疑問を持った。これは本当に自由なのか?本当に多様性があるのか?
40代になる頃には、民主主義という制度自体への信頼が崩壊し始めた。政治は腐臭を放ち、政策は目先の人気取りに終始し、メディアは特権階層の御用機関と化していた。選挙はただの演出、政党は看板を変えただけの利益共同体。有権者は「選んだ」と錯覚させられているだけで、実際には何一つ選んでいない。それでも「民主主義だから正しい」という呪文は機能し続け、制度の批判者は社会から排除されていく。
そして50代、2020年のトランプ落選とその周辺の動きを見たとき、私は完全に「反民主主義側」に転じた。選挙のプロセス、メディアの狂乱、SNSによる検閲、異論の封殺――すべてが「民主主義」という名の下に行われた。表現の自由も、言論の自由も、政治的選択肢の自由もない。あったのは、正しいとされる方向に人々を誘導し、それ以外を抹殺する装置としての民主主義である。
この構造を突き詰めれば、民主主義とは「特権階層による支配を、あたかも民意であるかのように見せかけるシステム」でしかない。支配階層は衆愚を操り、扇動し、票を通じて自らの支配を正当化する。民主主義は、民意ではなく「民意の操作」を制度化したものだ。その意味で、独裁よりはるかに悪質だ。独裁にはあからさまな強制があるが、それゆえに欺瞞は少ない。民主主義には、欺瞞と偽善が制度そのものに組み込まれている。
さらにおかしいのは、民主主義が「多様性」を唱えながら、独裁や権威主義を語ることすら許さない点である。独裁体制は少なくとも民主主義の存在を認識し、共存する戦略的柔軟性を見せる。だが民主主義はどうか。「非民主的」というレッテルを貼ることで、相手を議論の土俵から叩き出す。つまり、民主主義は異なる価値観と共存できない宗教である。
いま、民主主義を公然と批判する者は「危険人物」と見なされる。自由と多様性を声高に唱える社会が、思想の自由を認めない――これこそが、最大の皮肉である。現代の民主主義は、もはや制度ではない。「信仰」であり、「マウントの道具」であり、「反対者を抹殺するための錦の御旗」である。
私は思う。いま必要なのは、民主主義を守ることではない。その欺瞞を剥がし、支配構造としての正体を白日の下に晒すことである。制度は目的ではなく手段である。もし手段が腐敗し、害悪となるのであれば、ためらうことなくそれを捨て去るべきだ。民主主義はもはや聖域ではない。叩き壊され、解体され、問い直されるべき対象である。