<雑論>「Chineseの時代」がやって来る / 参照点理論と国際政治 / ハニートラップと国家統制 / トランプの戦略と限界 / 言論の自由と経済的不自由

● 「Chineseの時代」がやって来る

 国際AI競技会で、優勝したのは中国チーム。そして、準優勝や上位に食い込んだアメリカ代表のチームメンバーも、実は全員が華人だった。もはや「Chinese」が世界を席巻しつつあるという現実が、あらゆる分野で可視化されつつある。

 アメリカは第二次世界大戦中、自国の市民である日系人を強制収容所に送り込んだ過去を持つ。果たして、同じように華人系アメリカ人を“敵性民族”として区別することが、いまの米国に可能だろうか。おそらく不可能である。なぜなら、華人こそが今のアメリカを技術的に、学術的に、さらには経済的に支えている中核だからである。

 これは「白人が劣っている」からではない。むしろ、彼らは健全な生活を選んだのである。週末はしっかり休み、ワークライフバランスを大切にする。だが一方、華人たちは昼夜を問わず働き、学び、成果を出し続けている。その持続的努力の蓄積こそが、今の差を生んでいるのだ。

 日本人もかつては勤勉で知られた民族である。今なお中国人に匹敵するほどの労働倫理を持っているかもしれない。だが決定的な違いがある。それは、個の才能を讃えず、周囲が足を引っ張るという文化的傾向である。日本では、スターを生み出すよりも、スターを妬む構造が根強い。そのために才能は開花せず、去っていく。

 さらに言えば、日本国内における中国批判の多くも、実は理性的な安全保障や政治判断ではなく、根底にあるのは「嫉妬」である。他人の努力と成功を認めるよりも、自国の衰退を相対的に正当化するための感情的発露にすぎない。

 これからの世界は、間違いなく「Chineseの時代」に入っていく。中国本土にとどまらず、全世界に広がるグローバル華人ネットワークが、経済・技術・学術のあらゆる分野で主導権を握るだろう。その現実を直視し、どう向き合うか。今問われているのは、相手ではなく、自らの知性と覚悟である。

写真:全球華人資訊聨盟

● 参照点理論と国際政治

 トランプ元米大統領は、世界各国に対し関税を引き上げた。各国からは非難の声が上がり、報復関税の応酬も見られたが、その中にあって、例外的に「喜び」の反応を見せた国があった。

 2025年4月3日、メキシコのシェインバウム大統領は記者会見において、前日発表されたアメリカの新たな関税対象国リストに自国が含まれていなかったことを、「メキシコは他国より優遇された」と表現し、国民に対してそれを自慢した。トランプの保護主義政策において、関税の対象から外されたというだけで、相対的な「勝利」としてアピールされたのである。だが、果たしてそれは本当の意味での得であったのか。

 この反応の本質は、「参照点」による損得判断である。他国が被った損害に対して、自国の損害が相対的に少なかった、あるいは回避された、という構図が「優遇」や「成功」と認識されるのである。これは行動経済学におけるプロスペクト理論(Prospect Theory)において中核をなす概念、参照点(Reference Point)の典型的な作用である。

 参照点とは、ある意思決定主体が損得を判断する際の基準点である。人間は絶対的な損益ではなく、参照点からの相対的な変化によって利得と損失を評価する。つまり、全体がマイナスであっても、「他人よりマシ」であれば利得と感じ、「自分だけ損をした」と認識すれば怒りや悲嘆が生まれる。シェインバウム大統領の反応はまさにそれであり、他国との比較をもって、メキシコ国民に対する政治的優位性の演出として用いられた。

 これはトランプの「計算通り」であったとも言える。彼は全方位的に圧力をかけつつ、あえて一部の国を“特別扱い”することで、外交交渉を有利に進める材料とした。こうした操作は、国際関係においても、企業交渉においても応用可能であり、「すべての者に損害を与え、その中から一部を救済する」という構図が、相対的優越感と心理的忠誠を引き出すメカニズムである。

 民主主義とは、本来、理性と判断力に基づいて選ばれた代表者が公共的意思を担う制度であるはずだが、現実には感情と印象に左右されやすい。自国の相対的ポジションを誇示することに終始する政治家が、安易な人気取りのためにこのような言語戦略を駆使するのは、行動経済学的には理解可能ではあるが、政治的成熟とは程遠い。

 参照点によって人は動き、錯覚のなかで判断を下す。そしてその錯覚を、戦略的に利用する者が勝者となる。感情の制度化された世界において、損得の実体は、必ずしも数値の多寡によって決まるものではないのである。

● ハニートラップと国家統制

 米国政府が中国駐在の外交官および政府機関職員に対し、「中国人との恋愛・性的関係を禁止する」内部指示を出したという報道がなされた。公表された命令ではなく、口頭および通信による非公式通達であり、対象は北京、上海、広州などの在中米公館に勤務する職員に限定されている。免除申請の制度もあるというが、承認されなければ私的関係の解消か異動を求められるという内容である。

 一見すれば、この通達は冷戦期さながらの「ハニートラップ対策」の現代的再燃である。実際、情報機関の世界においては性的関係を介した情報引き出し、いわゆるハニートラップは現実のリスクであり、米国政府がこうした措置を取る背景には、対中関係の緊張と相互不信の蓄積があることは否定できない。特に米中の技術・経済戦争が激化するなか、外交官が不用意に民間人と接触することへの懸念が強まっているのであろう。

 しかし、この通達には構造的な問題がある。第一に、その実効性である。禁止令を出したところで、個々人の私生活をどこまで管理できるのか。関係の定義は曖昧で、形式的な接触すら排除の対象となるならば、外交官は対人関係そのものを制限されることになる。第二に、「抜け道」の存在である。非公式通達である以上、運用の現場において恣意性が生まれやすく、また人間関係という性質上、表面に出づらい違反も数多く潜在することになる。

 今回の措置は、個別外交官の自律的判断を超え、国家が個人の私生活にまで介入する姿勢を示すものであり、民主主義国家においても「地政学的緊張」が人権と自由の境界を揺るがす事例となり得る。国家の安全保障と個人の自由は、時に激しく衝突する。そしてその境界線は、政策ではなく“恐れ”によって引かれることがある。

● トランプの戦略と限界

 Trump is doing the RIGHT things. But he cannot do the things RIGHT.

 トランプは正しいことをやっている。しかし、それらを正しく遂行することができていない。すなわち、彼の掲げる国家主権の回復、産業の再建、対中強硬政策といった方向性は、アメリカの国益にかなう正しい理念ではあるが、それを制度的に、かつ合意形成を経て円滑に推進する能力が著しく欠けているという現実がある。

 民主主義国家においては、制度と法の支配が政策推進の前提である。彼が憲法解釈の変更によって大統領任期の延長を狙っているとの情報もあるが、それ以前に、今の任期を全うすること自体が極めて困難な状況にある。彼の振る舞いや発言には一定のパターンがあり、それを分析・把握することによって、ディープステート(DS)や民主党勢力が反撃に出るのは時間の問題である。

 このような構造の中で、唯一の打開策は、中国やロシアと手を組んで新たな国際秩序を構築することにある。これこそが私が繰り返し主張してきた「米中露大連合」というビジョンである。トランプが習近平と、「地球を半分ずつ分け合う」という新秩序を約束できるか否かが、今後の世界情勢の鍵を握っている。

 この文脈で注目すべきは、ベトナムのしたたかな戦略である。ベトナムが対米ゼロ関税を提示すれば、米国による対越46%の関税措置は実質的に持続不能となる。トランプ政権が関税政策を実施するにあたり、詳細な貿易データではなく、相互関税率という単純な指標を用いて引き上げたとされる点は、政策形成の粗雑さを示すものである。本来であれば、世界各国一律に適用するのではなく、段階的に50か国程度からテスト導入するなど、現実的かつ柔軟な運用が求められたはずである。

 現時点、2025年4月6日現在において、全米各地で反トランプの抗議デモが急速に拡大している。これは予想よりも早い展開であり、彼の戦略や施策が大衆に理解されていないことを意味する。国民が日々の生活コストに圧迫されれば、政治理念ではなく生存本能から抗議に立ち上がる。このままの状況が続けば、トランプ政権が4年間持続することは難しい。

 加えて、彼の進める産業回帰政策は短期的には可視的成果を出しにくい。現在のベトナムは、すでに中国の「代理工場」として機能しており、サプライチェーンの再構成によって原産地表示さえ調整すれば、中国企業は米国向け輸出の損失を最小限に抑えることができる。これは中国の高度な戦略的対応であり、同時に中国は対米報復関税を34%にまで引き上げ、アメリカ側の経済損失がむしろ大きくなる構図を形成している。

 このような関税戦争の構図は、単なる経済問題を超えて、台湾問題を含む地政学的な取引の土台ともなり得る。アメリカは現在、中国を圧迫するつもりが、実は外交・軍事・経済の複合戦略において一手遅れになっている可能性がある。

 以上の分析から、トランプの政策は理念としては「正しい」が、それを推進する手段と制度運用能力が「正しくない」ために、政治的にも戦略的にも継続性が危ぶまれているのである。

● 言論の自由と経済的不自由

 日米など民主主義国家の共通現象ーー。大多数の国民は、「言論の自由の拡大」と「経済的不自由の拡大」が並行している。なぜだろうか?民主主義はすでに表面上のものになり、少数の特権階層が国家を操縦し、国民を搾取し、富を掠奪しているから、大多数の国民が「経済的不自由」に陥っているのである。

 この少数独裁の実態を隠すべく、支配者は「言論の自由」を強調し、民主主義の虚像を国民に押し付ける。「言うだけ言わせておけ」「投票だけさせておけ」と。投票で選ばれた者は、システムの中に入れば全員がぐるになる。誰に投票しても状況が変わらないのだ。「あなたの一票が政治を変える」というのは、最大級の嘘だ。

 投票とは、腐った肉か腐った魚を選ぶようなものだ。

 私が繰り返してきたことだが、世の中に「独裁」という1つの統治形態しかない。「個人独裁」と「集団独裁」という違いがあっても、中身は変わらない。いや、民主主義を装った「集団独裁」は、偽装の欺瞞性があるだけによりタチが悪い。

 「言論の自由」と「経済的不自由」の一体化増長。その原理は、非常に簡単ーー。貧しくなった人たちが暴動や革命を起こさないために、餓死しない程度の糧と「ガス抜き」を提供する必要があるからだ。「言論の自由」はまさにそのガス抜きの重要なツールだ。

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