社会契約双務の毀損と民主主義独裁化の自己修復

 フランス革命。近代民主主義の「啓蒙」という後付け的な礼賛には、絶えずアレルギーを感じている。それは、権利の啓蒙であって、義務の啓蒙になっていないからだ。

160614-1144-Cameron Highland-農業研究試験場キャメロン高原の花(2016年6月14日撮影)

 そもそも人権を始め、権利を含めた福利は人間の本能的欲望に起源するもので、啓蒙に当たらない。市民の暴力運動によって誘発された後付け的な正当化たる規定に過ぎない。

 自己生存の正義が自然法によって保護されており、原始的な、万人による万人の闘争状態に社会契約の概念を導入する先見の明から結果的に生まれる契約の双務性は、担保されていない。少なくとも、その実務的機能の担保が極めて脆弱である。

 民の自己権力の膨張は、生物の自己保存と自己拡張の本能に起因する。共同体に対する義務に触れると直ちに政治家が人気を失い、民主主義多数決の敗者に転落する。

 であれば、公民社会における社会契約の双務性が毀損しつつ、バランスを失っていく。制度がある限り、そのシステム的障害の自己修復が極めて困難である。麻酔なき自己手術のようなものだ。

 民主主義の暴走にはいよいよブレーキが必要になってくる。ただそのブレーキは絶対王政や独裁政治ではなく、易姓革命の繰り返しも妥当しない。結果的に、民選政治家と非民選政治家の相互けん制機能が限られた選択の一つではないだろうか。日本の場合、参議院の非民選化、献金の全面禁止、議員の無報酬化がその唯一の方向なのかもしれない。

 独裁は民主によって否定され、修正や転覆されることができても、民主主義制度は他者によって否定されることもなければ、自己修復も難しい。その意味においては、民主自体の独裁化が独裁よりさらにたちが悪い。21世紀はまさに民主主義による独裁の時代である。

 独裁を否定する民主が独裁する。ヘーゲルの弁証法で考察する場合、止揚という概念を持ち出す。対立要素の相互転換、「否定の否定の法則」に照らして「らせん的発展」の先に何かが見えてくるかというと、暗黒のままである。資本主義制度もまた然り。

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