【Wedge】働き方改革(11)~失敗の責任を誰が取るのか、日本企業の落とし穴、「和を以て貴しと為す」の誤解

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 日本企業のなかでは、なかなか本気で議論することができない。議論の場を与えられていないというよりも、議論するムードが醸成されていない。議論は「対事型」(What)でなければならない。それが「対人型」(Who)に転じた時点で、対立が生まれ人間関係に亀裂が入る(参照:日本企業が「議論」を封殺する本当の理由)。「和を以て貴しと為す」を基調とする日本型の共同体では、人間同士の意見対立が「和」を壊す元となるが故に、議論が忌避されてきた。

●「和を以て貴しと為す」の誤解

「和を以て貴しと為す」。聖徳太子が制定した十七条憲法の第一条に出てくる言葉だが、一般的に「皆で仲良くやろう」と訳す人が多い。果たしてそうだろうか。

 十七条憲法の第十七条では、「十七に曰く、夫れ事は独り断ず可からず、必ず衆と与ともに宜しく論ずべし。少事は是れ軽し、必ずしも衆とす可からず、唯だ大事を論ずるに逮およんでは、若もしくは失有らんことを疑ふ。故に衆と与ともに相ひ弁ず。辞じ則ち理を得ん」と記されている。

 現代語に訳すと、「第十七条 国家の大事は独断せず、必ず皆で合議せよ。些事は軽き故に必ずしも合議せずともよし、されど大事を論ずるに至っては、少しの過失有るを恐る。故に皆で十分に論議を尽くすべし。さすれば、その結論は必ず道理に通ずるであろう」となる(高島米峰著『十七条憲法略解』、安岡正篤著『人生の大則』)。

 この第十七条は、第一条の補完として読むべきだろう。すると、「和を以て貴しと為す」とは、決して単純に「皆で仲良くやろう」を意味するものではないことが分かる。議論を排除して仲良くやろうというのではなく、むしろ納得いくまで議論しろということなのである。

 では、「十分に議論を尽くす」とは、どのような状態を指すか。第十七条の最後の一言「さすれば、その結論は必ず道理に通ずるであろう」がその説明になる。つまり、「道理に通ずる」ところまで議論するということだ。「道理に通ずる」あるいは「道理にかなう」とは、人の行いや物事の道筋が正しく、論理的であることを意味する。これを見ると、聖徳太子はその時代にすでに「論理的な議論」の重要性を認め、議論を呼び掛けていたことが分かる。

● 誰が責任を取るのか?

 しかし、今日の日本社会では、聖徳太子が提唱した「論理的な議論」はなぜ行われにくくなっているのだろうか。その1つの原因は、組織内部の利害関係、つまり「議論」の結論と組織の構成員の個人的利益(個益)との関係にある。

 あらゆる議論の結論は、必ず、特定の作為または不作為に反映され、さらにこれらの結果につながる。そこで結果に対する評価が行われる。その評価は最後に組織の構成員の個益に反映される。この連鎖によって個益が絡んでいる以上、構成員は機敏に反応するわけだ。

 結果が良ければ、問題ないが、結果が悪ければ、誰が責任を取るかという問題が浮上する。そこで集団合議制の「優越性」が現れる。特定の構成員が責任を取る必要がなく、係わった全員が責任を取る。責任を人数分で割れば、1人あたりの分担が軽くなる。一定の合理性がある。そもそも独裁政治から民主主義政治への移行それ自体も、責任リスクの分担という意味合いが込められていたと言っていいだろう。

 集団合議制による個体責任の軽減は合理的だが、組織のすべての事項を集団合議によって結論付けるわけにはいかない。「些事は軽き故に必ずしも合議せずともよし」、会社の基本戦略方針たる重大決定は合議に付されるが、日常の運営には様々な「些事」もあるだろう。これらの些事は、権限を与えられている各レベルの経営者・役員や管理職によって決裁されなければならない。そこでまたもや責任が生じる。

 この責任を回避すべく、決裁者が取り得る方法は何だろうか。基本的にこれも、聖徳太子が提唱する「論理的な議論」にほかならない。それでも決裁者は心細くなるときがある。特に前例踏襲によらぬ判断を強いられたとき、決裁者は不安に陥りやすい。その場合は、集団合意の代わりに前例や標準型にあたる一般モデルが決裁の根拠になる。これらの根拠のもとでなされた決定は、たとえ不良な結果を招いたとしても、前例やモデルがある種の免責根拠や「免罪符」となるからだ。

 免責根拠が見つからない場合、決裁者は「不作為」(提案否決など)を選ぶことでリスクを回避する。やらなければ、失敗もしない。しかし、「不作為」それ自体が失敗になることもある。その際、機会損失などの潜在的損失が生じても、とりあえず目に見えないだけに責任を逃れることができる。

● 失敗を許さない「不寛容な組織」

 ここまでいうと、責任逃れの経営幹部(決裁者)(Who)に非難や批判の声が集中する。議論が進行するうちに、不覚にも特定の当事者という「Who」が標的にされる。そこでさらなる責任逃れのために、当事者はあれこれ言い分を担ぎ出し、議論が泥沼化する。気がつけば、人間同士の対立が深まる一方だ。

 生身の人間なら、誰にも多少責任逃れの傾向があるだろう。人間の本性を否定してはいけない。責任逃れの他人を批判する自分もいざその場に置かれたとき、責任逃れの主体になっていたかもしれないからだ。なぜ責任逃れになるのか、あるいは責任逃れを動機づける体制の本質は何なのか、体制を変えることはできないものか、といった「対事型」(What)の議論に切り替えたい。

 海外でよく見られる光景だが、日本人ビジネスマンと外国人が取引の交渉をする場面。そろそろ折り合いをつけても良さそうな雰囲気になってきた。そこで、「よし、これでディールだ」と決めたいところだが、日本人は「この件は本日持ち帰って上司と相談します」と切り出す。外国人はひっくり返る。「何だ。決裁権をもたないやつと相談して、時間の無駄だった」と不快になる。

 日本企業の伝家の宝刀「報・連・相」が裏目に出た瞬間である。海外では交渉に先立って必ず交渉担当者にボトムラインとなる条件を伝え、決裁の権限を与える。なぜ権限を与えずに都度報告や相談を求め、部下の仕事に首を突っ込むかというと、上司は失敗をしたくない、責任を取りたくないからだ、というケースが少なくない。

 人は失敗を咎められると、次は失敗しないようにと不作為に徹したり、部下の行動や業務の過程にもいちいち細かいことまで首を突っ込むようになる。日本の組織の中で、上から下まで誰もが責任回避の行動を取るのは、失敗に対する不寛容があるからだ。リスクをとって成功した人に大きなご褒美が与えられることもない。それどころか、嫉妬を買って足を引っ張られることすらある。一方、不作為で機会損失を招いても個人レベルの不利益はない。つまり、日本企業の組織構成員に対する評価基準の問題である。対事議論(What)よりも対人評価(Who)が中心になっているからだ。

 日本社会の根底に横たわる問題の数々。その本質(What)を見逃して、事件があるたびにその当事者(Who)を「悪」として叩く。それでは問題解決どころか、責任逃れや隠ぺい行動を助長すらしかねない。

●「敗者復活」のチャンスを与える仕組み

 私が以前勤務していた外資企業では、権限を与えられた範囲内で失敗を許される。ただし、同じ失敗は2度までとされ、3回目をやったらアウトだ。それは失敗の問題ではなく、総括力と学習機能がないからである。

 論理的な議論を経て結論を導き出し、結論が出たら行動する。行動して失敗した場合、寛容な心と体制で許す。さらに議論を重ね、失敗を総括して再挑戦すればいい。失敗には減点が付いても良い。ただ必ず敗者復活のチャンスを与えることだ。失敗して1点を減点、もう1回失敗したら2点を減点、3回目成功したら5点を加点。そうしないと、誰もが新しいことをやらなくなる。会社も社会も衰退するのみだ。

 「PDCAサイクル」は素晴らしいツールだ。ただ、「Plan:計画」「Do:実行」「Check:評価」「Action:改善」のなか、「計画」だけは気をつける必要がある。その「計画」がどのようなプロセスで形成されたか。計画は、論理的な議論を経て導き出された結論に基づかなければならない。

 故に、「Discussion:議論」→「Conclusion:結論」→「Do:実行」→「Check:評価」という「DCDCサイクル」を、私は提唱している。

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