【Wedge】働き方改革(13)~高齢者に運転させるべきか、弱者配慮における「情」と「理」~池袋暴走事故から考える「全体最適」の仕組みづくり

<前回>

 弱者扱いは善悪の判断に直結するデリケートな問題である。大きく変わろうとする日本社会の中においても避けて通れない議題である。弱者救済という「善」と救済コストという「悪」がアンチテーゼになり、問題を複雑化させている(参照:「弱者に優しい社会」は日本人全員を弱者にする)。この対立にどう対処していくか、知恵が必要だ。

● 大惨事、池袋の暴走車事故

 4月19日午後、東京の池袋で高齢者の乗用車が暴走し、多くの死傷者を出す大惨事になった。事故で松永真菜さん(31)と娘の莉子ちゃん(3)が命を奪われた。松永さんの夫は記者会見で悲痛な胸の内を明かし、声を詰まらせた――。

「最愛の妻と娘を突然失い、ただただ涙することしかできず、絶望しています。たった一瞬で私たちの未来は奪われてしまいました。悔しくて悔しくて仕方がありません。この悔しさはどれだけ時間が経っても消えないでしょう。少しでも運転に不安がある人は車を運転しないという選択肢を考えてほしい」

 その最後の一節。「運転に不安がある」自覚を持つ人の自発的な不作為(運転しない)を期待するものであれば、自覚を持たない人の問題や、自覚があっても運転をやめようとしない人の問題が生じる。それとも、その「選択肢」の実現を法的強制力に期待して語ったのだろうか。

 運転免許の保有問題。高齢者層は今回の事件でまたもや矢面に立たされそうだ。高齢者による自動車交通事故が多いことも事実だ。警察庁の資料によると、75歳以上の運転者の死亡事故件数は、75歳未満の運転者と比較して、免許人口10万人当たりの件数が2倍以上多く発生しているという。

 池袋の事故をきっかけに高齢者の運転を禁止すべきだという声も上がってきている。同類事故の発生を最小限に抑えるという意味で、高齢者運転禁止の法改正がもっとも手っ取り早い。ただ問題はそう単純ではない。

● 弱者が加害者に変わるとき

 高齢者が自動車を運転すると事故につながりやすい。では、高齢者から運転免許を取り上げよう。確かに一理ある。ただ高齢者は弱者であるが故に、弱者いじめとして批判されるかもしれない。

 高齢者は弱者であろうか。電車やバスに優先席が設けられている以上、少なくとも日本の社会通念上、高齢者には弱者相当の判断要件が揃っているように思える。弱者に優しくするという意味で、自動車運転の権利を乱暴に奪うべきではないとも考えられる。

 ただ、弱者がいざ自動車を運転するとなると、状況は一変する。運転を少し誤っただけで車は多くの人を殺傷する「凶器」になり得るからだ。弱者が加害者に変わる。その「凶器」を前にして、周りの人たちはそれぞれの社会的強弱者性に関係なく、一瞬にして弱者と化する。私が繰り返してきた「弱者に優しいことによる全員弱者化」の一場面でもある。一次弱者救済から生まれる二次弱者と言っていいだろう。

 加害者の高齢者は事故を起こすことによって良心の呵責に苛まれたり、逮捕や刑罰を含めた法的責任を問われたり、多額の賠償を求められたり、二度と運転できなくなったり、自身や家族に大きな影響を及ぼすことは間違いない。故に、加害者も弱者化される。

 であれば、ますます高齢者運転禁止にするべきだと考えてもよさそうだが、果たしてそうなのか。

 高齢者は全員運転に適していないわけではない。健康で運転にまったく支障のない高齢者も大勢いる。彼たちは無差別な禁止令によって権利を侵害され、弱者化されてしまう。

 たとえば、農村部。特に公共交通機関が発達していない農村部の高齢者にとってみれば、車がないと、生活が成り立たなくなる。通院などに支障が出れば、影響が深刻化する。健康の悪化やときには死を意味する。

 つまり、二次弱者救済から、さらに三次弱者が生まれるということだ。この弱者拡大現象を回避するには、「全体最適」の仕組みづくりが必要である。

● 弱者配慮における「情」と「理」

「弱者」という善悪の概念を取り入れると、議論が収束できなくなってしまう。さらに「Who」を中心とする議論だけに、またもや対立が生まれる。繰り返しているように、「What」にフォーカスしたアプローチを取りたい。要するに、仕組みづくり。大袈裟にいうと、社会システムの構築や修正にあたる。

 まず、高齢者の健康状態と運転適性の検査は一般運転者より頻繁に行うべきだろう。免許有効期間は、3年や5年でなく、1年や2年に短縮し、あるいは超高齢者の場合6か月もあり得ると。医学的検査項目も増やさなければならない。安全性の確認は座学の安全講座だけで済まさず、実技走行試験も入れるべきだろう。

 年齢や前回免許更新時の状態によって次回更新の検査・試験項目を決める。いくつかのレベルに分けて運営する。もちろん、コストは一般より大幅増になるが、これは基本的に高齢者本人に負担してもらうしかない。

 次に、都市部への乗り入れ禁止・規制である。都市部の人口密度を考えれば、事故の被害が農村部よりはるかに大きい。さらに公共交通機関が発達する都市部では自動車の必要性が低下するのも、禁止・規制の理由となろう。これは農村部の高齢運転者への救済措置にもなり得る。たとえば、都市部へ乗り入れしない「カントリー・ドライビング・ライセンス」という条件限定免許なら、更新手数料の割引適用も可能にするとか。

 さらに、インセンティブ措置も並行する。高齢者が免許を自主返納した場合は、奨励金やタクシー券、ライドシェア券の支給も理にかなっている。これらの原資はやはり、免許を継続保有する高齢者の割増免許更新手数料から捻出すべきだろう。

 このような仕組みづくり、いわゆる「シルバー・ドライビング制度」を構築し、運用するにはコスト増が避けられない。国や自治体に「予算を組め」と言ったらそこまでだが、いずれにしても大切な税金から捻出する必要がある。公平性からいうと、受益者である高齢者が多めに負担するのは理にかなっている。高齢化社会に突入した以上、コストをどんどん現役世代に転嫁することは、決して持続可能なやり方ではないはずだ。

 弱者救済や弱者配慮という「善」と救済コストという「悪」がアンチテーゼだと言ったが、前者は感性的な命題であり、後者は理性的な命題である。つまり、「情」と「理」は必ずしも一致しないわけだ。

「情」と「理」をごちゃ混ぜにすると議論が混乱するから、必ず切り離して考察する必要がある。家の中では、子供の将来のためなら、いくらでも教育資金を注ぎ込みたい。「親の愛情」(情)が「経済的合理性」(理)より先行しても、家族単位だから問題はない。ただ企業や社会となると、そうはいかない。ステークホルダーが多数あり、緻密な合理性に基づき、「全体最適」の仕組みを作る必要が出てくる。

 このシリーズ、「働き方改革」というテーマには常に「情」と「理」の問題がつきまとう。

<次回>

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