【Wedge】ゴーン独裁者への制裁願望、ルサンチマンに遡源する復讐情念

 ゴーン植民王国から、日産自動車は見事に独立を果たした。これからの日産は「日本的経営」に戻るとすれば、グローバル競争を勝ち抜くことができるのだろうか。という懸念がある。しかし、私は別の懸念をもっている。

● 独裁者の降臨と日産の蘇生

 1999年、瀕死寸前の日産にゴーン氏がやってくる。最高執行責任者(COO)に就任した氏は再生計画の「日産リバイバルプラン」を発表する。村山工場など完成車工場3か所の閉鎖や、グループ従業員2万1000人の削減に踏み切り、日本人経営者ではなかなかできないドラスティックな経営改革を断行した。

 そもそも日本人経営者といっても、経営陣という集団をベースとした経営意思決定を行う形態が取られており、激痛を伴う大改革のコンセンサスを形成するには非常に困難である。日産がこのような大改革に踏み切れたのも、まず日産が瀕死状態に陥ったことと、そして日本の常識をもたない外国人であるゴーン氏がやってきたことが大きな原因だったのではないか。

 独裁者の降臨で日産が救われたのだった。逆にいえば、権限が集中していなければ、日産はすでに死んでいたのだと言っても差支えない。ゴーン氏が逮捕された11月19日の日産の記者会見で、西川廣人社長は「あまりにも1人に権限が集中し過ぎていた。長年のゴーン統制の負の側面だ」と語り、カリスマ体制を批判する。

 しかし、19年前の独裁者降臨がなければ、権限集中下の企業統治がなければ、今日の日産ははたしてあるのだろうか。無論その辺は「歴史にもしもはない」と言われたら返す言葉もないだろうが、逆に、世の中いかなる後付け的な美辞麗句や正義論にも同じことが言えるのではないか。

 19年という期間も、日産はほぼゴーン独裁統治下の植民地であったという言い方は少々過激かもしれないが、ある意味で脱日本的な企業統治にアレルギーを起こす社員も少なからずいたのだろう。瀕死の日産がしばらくすると危機から脱出し復活する。徐々に好調に恵まれるようになれば、人間は徐々に欲望が出るものだ。日本社会特有の平等意識は資本主義制度下の真の自由競争と相容れない部分が多く、社員間の格差、上下間の格差、特にゴーン氏という独裁者自身と一般幹部や社員間の格差がどうしても目立ってしまう。

● トップと「みんな」の関係

 あらゆる成功は必ず「みんなが頑張ってくれたおかげです」という日本的な低姿勢が求められる日本社会においては、ゴーン氏の異色の存在と振舞いは日産社内のみならず、日本社会全体との非親和性、いやミスマッチが目立ってしまうのだ。「成功したらみんなのおかげ、失敗したら自分のせいなのはなぜですか」、日本企業で働く外国人にこう聞かれたのは一度や二度ではない。

 多くの外国人は、「成功したのも私のお陰であれば、失敗したのも私のせいだ」という「成敗均衡論」をもって仕事をしているわけだから、ゴーン氏ももしやその1人だったかもしれない。すると、日本人的な感覚からすれば、ゴーン氏は社員全員の功績をある意味で横取りし、高額な経営者報酬を独り占め、庶民から見れば雲の上のような王侯貴族同然の贅沢な生活を送っているようにも見えてしまう。

 私が欧米企業勤務時代に見てきた欧米的な感覚はこうである――。「実務レベルでは一般管理職や一般従業員の努力や貢献を否定しない。ただ、他者に取って代われない経営者の不可代替性が成す価値は唯一である」と、つまりはトップの唯一性、希少性に絶対的価値が置かれるのである。したがって、トップと一般従業員の賃金報酬の格差は量的格差よりも、質的格差がより本質的な意味をもつ、こういう認識が持たれていた。

 この辺は、日本人の目線との間に本質的な差が存在していることを看過できない。ゴーン氏からすれば、1999年当時瀕死状態に陥った日産を引き受けたとき、再建に成功できるのかそれとも失敗するかがまったく見えなかった。あらゆるリスクを彼が一身に引き受けた以上、当然ながらも果実を享受する身分であり、独裁者の地位にとどまる特権をも手に入れてしかるべきだと認識したのだろう。プライベートジェット機に乗ったり、南米や欧州の高級住宅に滞在したり、豪華なバカンスを楽しんだり、これくらいの特権は当り前ではないかと。

● 庶民的感覚の逸脱と「制裁願望」

 要するに「庶民的な感覚」をどうしても重要視する日本人的価値観との隔たりが大きい。このような庶民的感覚はしばしば、ルサンチマンと呼ばれる側面もあろう。ただこれに関しては日本という農耕社会的な文化を背景とする価値観や世界観をも無視できない。「みんな」という言葉に価値を置き、「みんな」と違うことをする人間はやはり共同体から様々な制裁措置を受ける存在にならざるを得ない。

 この「制裁」とは必ずしも行動によるものとは限らない。より多くの場合は、「制裁願望」という形で「みんな」の心底に密かに芽生え、外部で一旦制裁可能な状況になったり、あるいは制裁の実施に付されたりする場合になれば、「みんな」は一斉に乗り出して「言論制裁」を発動するのである。

「制裁願望」をくすぐるのは無論メディアである。週刊誌や最近一部週刊誌化した報道機関も視聴率やなんとか率という商業目的で動き出す。誤解のないようにお願いしたい。私はこれらの現象を批判しているのではない。むしろあって当たり前だと言っているのだ。

 羽田空港に降り立ったゴーン容疑者を逮捕するシーンよりも、氏が乗ったとみられるプライベートジェット機の滑走シーンを長く映し出しているところ、何らかの暗示をかけていませんか。ほらほら、見て見て。こいつ、こんなに贅沢な生活を送っているのだ。それで数十億円もの高額所得をごまかしているのだ。そういうヤツなんだよ」。そこで庶民たちの「制裁願望」がより一層高揚する。

 ゴーン氏の海外不動産疑惑報道も同様な手法が見られる――。「日産の子会社に海外4か国で高級住宅などを購入させた疑いが出ています」と、ニュース番組は実際に現地の物件を映し出し、高級感を漂わせるところ、類似の暗示を仕掛けようとしているのではないか。海外不動産の一件、企業法務的な検証は、次のようなポイントを挙げられる――。

(1)海外不動産の登記簿上の所有名義は誰なのか?会社かゴーン氏個人か?

(2)日産の子会社という会社名義による購入なら、購入目的や用途・予算等を含めて購入の決裁にあたって会社定款等の規定に沿ったものであるかどうか?

(3)購入された物件の使用権(たとえば、役員社宅など)について、会社定款等の規定に沿ったものであるかどうか?

(4)不動産投資について、出資等の当事者間に何らかの信託契約は存在しているかどうか?・・・

 このようなポイントをまず理性的に洗い出し、一つひとつ検証していくのが筋だろう。しかし、庶民向けの番組ではこんなことを一々しゃべったら難解で仕方ない。視聴者がさっさとチャンネルを変えてしまうのがオチだ。すると、感性的な部分を情緒的にアピールするのがメディアであって、いつの間にかこのような情報がネット上にも溢れてしまうわけだ。

● ルサンチマンに遡源する善悪観と富裕層叩きの復讐

 庶民の「制裁願望」は恐ろしい。フェイスブック上も賑わっている。こういう過激な投稿もあった――。「そりゃこいつらの財産を全て没収して庶民にバラまいて欲しい。高所得者の累進課税率を爆上げして合法的にぶんどれ」。このあたりにくると、極端なリベラル、あるいは共産主義者の出番になる。革命というのは基本的に、庶民のルサンチマンと「制裁願望」を源とする。

 ニーチェの「道徳の系譜学」で描かれたルサンチマンは、非暴力的な被抑圧者、いわゆる善人でありながらも、いざ革命という段に来れば、たちまちに豹変し、他人を攻撃するようになり、報復するようになり、そのときだけは復讐の神に自らなり、仇敵をギロチンにかけ、容赦なく命を奪っていくのである。

 中国の建国史も然り。地主や資本家という富裕層への庶民の「制裁願望」が革命の原動力となっていた。富裕層に「悪」というレッテルを張り付けたところ、社会は危険を孕む。そこまで発展しなくとも、実際の分配ルールを下手に変えた場合も深刻な結果を招来する。ITの時代、そしてグローバルの時代である今日において、日本の富裕層が資産を海外に移転させることはそんなに難しい話ではなかろう。ゴーン氏を塀の中に入れることができても、カネを塀の中に入れることはできまい。

 縷々と述べてきたが、私は決してゴーン氏を弁護しているわけではない。むしろ、罪を犯した場合はきちんと法の制裁を受けてもらうのが当然だと思っている。ただ庶民の「みんな」の「制裁願望」ではなく、確固たる証拠に基づき、正当な司法手続きを経ての制裁である。日本は法治国家である。

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