● 中国撤退、逃げ遅れた外資企業の苦悩
李嘉誠氏の中国撤退は終盤に差し掛かった。
香港最大のコングロマリット長江和記実業(CKハチソンホールディングス)元会長、世界28位の富豪(2019年3月フォーブス発表)李嘉誠氏の中国資産(香港を含む)が総額ベースで1割に縮小し、欧州資産は5割を超えた。李氏は過去6年にわたって段階的に撤退し、中国からフェードアウトしたのである。3月25日付けの台湾・自由時報が、ハチソン社が発表した2018年度の同社財務報告を引用し報道した。
ハチソン社の総資産額は2018年末現在、1兆2322.44億香港ドル。そのうち香港を含む中国資産は1424.38億香港ドル、総資産額の11.55%を占め、2015年末の19.21%からほぼ半減した。これに対して欧州資産が2018年末現在、6736.9億香港ドル、総資産額の54.67%を占め、欧州が同社のメイン投資先になった。
米中貿易戦争の長期化を背景に、中国は資本流出に神経をとがらせ、外貨管理を強化している。中国事業から撤退しようとする多くの外資企業は、海外向けの送金まで難しくなってきたことに頭を抱えている。早い段階で撤退の決断ができなかったことを悔やむ一方、李嘉誠氏の「先見の明」を讃えた。
● 明暗の分かれ目、2008年の異変
李氏が中国撤退の英断を下したのは、2013年頃と推定される。同年10月、李氏は建設中の上海陸家嘴東方匯経中心(OFC)を90億香港ドルで売却した。私は同年10月に上海からマレーシアへ移住した。クアラルンプール市内の新居に入ってわずか2週間後、この一報に接して驚いた。
私は2000年に東京から上海に居を移し、以降、中国に進出した日系企業向けの経営コンサルに特化して取り組んできた。分水嶺となったのは中国が繁栄の頂点に達しつつあった2008年の労働法の改正。正確に言うと、「労働契約法」という新法の施行である。この法改正は中国経済や産業界に大きな衝撃を与えた。簡単に言ってしまえば、企業は労働者を解雇したり、減給したりできなくなり、ほぼあらゆる人事権を実質的に失ったのである。
日本流に言うと、それまではすべて非正規雇用社員だったが、一夜にしてほぼ全員が終身雇用で減給不能の正社員に変身する――それくらいの激変であった。当時、著名な経済学者(中国経済研究)である香港大学経済金融学長・張五常氏 (スティーブン・チョン)はそのレポートにこう記した――。
「労働契約法は、怠け者を保護する法律だ。市場の反応は、災難の予兆を示している。今年(2008年)は中国経済改革開放の30周年だが、人類史上かつてないこの偉大な改革は、労働契約法によって崩壊する可能性が大きい」(拙著(共著)『実務解説 中国労働契約法』(中央経済社))。
● 外資企業は「年老いた糟糠の妻」
結論からいうと、張教授の予言は見事に的中した。
2008年秋のリーマン・ショック後、中国が打ち出した4兆元(当時のレートで約57兆円)の景気対策は、中国だけでなく、世界をも救ったとされる一方、中国国内では地方政府や国有企業の債務を急増させ、不動産バブルといった後遺症ももたらした。労働市場では、労使紛争が急増し、労働力コストも年々上昇した。
私が2007年9月1日号の当社会員誌に寄稿したコラムの一節を抜粋する――。
「中国の外資導入は、加工貿易から始まった。ところが、輸出税還付から加工貿易政策の全面的な調整まで、最近一連(2007年以降)の動きから、加工貿易時代の終焉をはっきり感じ取れるようになった。80~90年代にあれだけもてはやされた加工貿易だが、いよいよ中国政府に切り捨てられる。思わず『薄情者』と非難したくなる一方、冷静に考えると納得もする。中国に外貨が溜まった。労働集約型で安い工賃を稼ぎながら、貿易黒字や環境破壊で諸外国に指弾されると、さぞかし気分はよくない。年老いた糟糠の妻を家から追い出したくなる。家に残りたければ、もっと若い美人妻に変身しろと。中国語の経済用語で言えば、いわゆる『産業結構優化』、『転型正義』『転型痛苦』、つまり『産業構造のグレードアップ(モデルチェンジ)は、正義である。薄情かもしれないが、その苦痛に耐えるべきだ』ということになる」
中国にとって労働集約型の外資企業は年老いた糟糠の妻になり、外資の全盛期は終わったのだ。2008年以降、各方面において不安の兆しがじわじわと見えてきた。仕事場を中国から東南アジアへ移転しようと私が画策し始めたのは、2010年のことだった。
● 中国進出日系企業の「3つのグループ」
2012年春、マレーシアへの移住が決まったその直後に、反日デモが中国を席巻した。2013年1月1日付けの産経新聞は、私に対する取材記事を掲載した。その一節を抜粋する――。
「立花氏は中国ビジネスを手がける日系企業を3つのグループに分けて戦略を練るよう訴えた。
まず、中国に加え東南アジアなど別の進出先で製品供給のバックアップ態勢を取る『チャイナプラスワン組』。ただし 資金や人材に余力のある企業でないと難しい。次に、取引先が全て対中進出し、販売市場が中国にしかないため、中国にしがみつくしかない『チャイナオンリー組』。この場合は、日本の成功体験を捨て、徹底的に現地化、中国化を進める必要がある。
最後は、労働集約型の工場など、労賃の急騰や労働力不足で今後、経営悪化が予想され、中国での成長が全く望めない 『チャイナゼロ組』だ。『投下資金の回収を断念してでも、早期の撤退を決断すべきだ』と立花氏はいう。
中国は政府関係者や既得権益層など20%の特権階級が国家の富の80%を握るとされる。不正蓄財での富のゆがみが大きく、中間所得層による爆発的な消費市場の拡大は望み薄とみる。
立花氏は、『低成長時代に入ると一部の特権階級は中国でのうまみを失い、不正蓄財を含む資産を持って海外に逃げ切ろうとするだろう。そうなれば大多数を占める負け組だけが取り残され、13億人の中国は“幻の市場”に。社会動乱の要因が拡大する』という」
私は経済学者でなく、経営コンサルタントである。中国経済の将来を見通してナンボという立場にない。ワースト・シナリオを想定し、それに備えて企業経営に逃げ道を作るのが仕事である。とはいっても、情勢を判断するためのベンチマークはいろいろ持っていた。その中の1つが、李嘉誠氏の動きである。
● 中国脱出、李嘉誠氏の「逃げ方」
李氏は2013年10月の東方匯経中心の売却を皮切りに、2014年57.5億香港ドル、2015年66.6億香港ドル、2016年200億香港ドルというペースで中国や香港の資産を売却し、その総額が1761億香港ドルにも上る(3月26日付け台湾・信伝媒(CredereMedia)記事)。
2015年1月、李嘉誠氏は長江グループと和記黄埔有限公司を合併させ、会社の登記地をケイマン諸島に移す。2017年、李氏は香港のランドマーク級の大型資産「中環中心(The Center)」を売却した。一連の大型売却で得た巨額の資金を中華圏から引き揚げ、欧州や北米、豪州などにシフトさせ、ポートフォリオの組み替えを着々と進めた。
李嘉誠氏は裸一貫から世界級の富豪に這い上がった人物で、ビジネスのセンスに優れているだけでなく、政治的な嗅覚も抜群に鋭い。本社転出の一件を考えても、香港は自由貿易港であり、利便性がよく、法人税も高くないため、一般人が考えるような節税策ではないことが明らかであった。
ゴールド資産を大量購入し始めたのも2017年。同年4月20日付の台湾・経済日報が報じたところによると、李氏は金鉱企業関連の投資だけでなく、大量の金地金も購入した。初の大量ゴールド資産投資だったという。
「有事の金」というが、ゴールドは換金性が高く、戦争や革命、ハイパーインフレなど「有事」の際、「最後のよりどころ」として買われる。だが、2016年に北朝鮮が続々とミサイル・核実験を行い世界を恐怖に陥れても、李氏はすぐには動かなかった。2017年になって李氏が初の金大量購入に踏み切ったのはなぜか、その理由は他人には知り得ない。ただ、彼がポートフォリオの組み替えにアクティブに動き出したこと自体が注目に値すると、私は考えた。
中国や香港からの撤退。巨額の投資を引き揚げた李氏を「儲け逃げ」と批判する中国や香港の世論もあったが、李嘉誠氏は公開書簡を発表し、「私は商人だ。ビジネスマンだ。道徳家ではない。利益を出すことはビジネスマンの本質的な価値所在だ。利益を上げられない商人は良い商人ではない。昨今のグローバル時代では、資本の流動は当然だ。資本に国境はない」と世論の批判を一蹴し、「撤退の罪」を全面的に否定した。
批判は李氏と中国本土の権力との結託まで及ぶが、李氏は「政府との協力はウィンウィンの原則に基づき、利益を上げるだけでなく、中国本土に資金や技術をもたらし、人材も育成したことで、中国の発展に寄与した」とし、共存共栄の正当性を主張した。
● 中国での終盤戦、「収穫組」と「逃げ遅れ組」
2018年3月16日、李嘉誠氏は90歳を前に引退を宣言し、現役を退いた。引退会見では、中国政治にも触れ、改憲に伴う習近平主席の続投可能性について、「私に投票権があったら、習主席の続投に支持票を投じるだろう」とリップサービスするなど、政治的バランス感覚はまったく鈍っていなかった。
2018年の旧正月頃、李嘉誠氏一族傘下の長江実業上海子会社では、密かに大規模リストラが始まった。中国の金融・経済情報専門メディアである財聯社が2018年8月24日付けで報じたところによると、リストラは上海法人の投資企画やマーケティング、工事など複数の職能部門にわたり、多くの従業員が解雇された。
さらに報道は内部関係者の話を引用し、「上海法人ではこれまでに大型リストラは一度もなかった。今回はあまりにも突然で規模が大きいだけに、ほかに原因があったのではないか」と異変を報じ、「李嘉誠氏は中国撤退ではないとしているが、言っていることとやっていることが違う。今回の大型リストラは、李氏が中国本土の不動産事業から完全撤退するサインだ」と指摘した。
高校を中退した李嘉誠氏はプラスチック製の造花を輸出して財をなし、不動産、港湾、エネルギー、通信にわたる一大商業帝国を築き上げた。動乱の時代を乗り越えるためには、ビジネスや経営の才覚だけでなく、政治的な嗅覚も欠かせない。これらを兼ね備えているのが李嘉誠氏であった。
私の感覚では、2010年以降の外資による中国事業は、ほぼ終盤戦参入に等しい。勝率はかなり低くなっていた。しかし、終盤戦の数年間は、李嘉誠氏にとっての収穫期に当たる。彼は2013年から6年にわたって完熟した果実を収穫し、新天地で新たな種まきを着々と進めてきた。彼の動きは、必ずしも時流に乗っているように見えなかったりもするが、そうした「異端児」的な動きから、揺れ動く世界のメカニズムを読み取る力を垣間見ることができた。その力は、サバイバルの本能を誇示する野性的なものであった。
知り合いの中国人や台湾人の実業家・経営者たちで密かに李嘉誠氏の動きをモニタリングしている人が多い。それでも、李氏に同期してリアクションすることが難しいのは、人間はやはり目先の事象に目を奪われる生物であるからだ。
日本人は海外に行っても、往々にして同胞の行動にしか目を向けようとしない。すると、二次情報どころか、三次情報や四次情報をつかまされる。それでは勝ち目がない。中国も一時期、「世界の工場」やら「13億人の巨大市場」やら大騒ぎされる時期があったが、世の中はそう甘くないのである。
「経営者にとって最も重要な仕事とは、すでに起こった未来を見極めることである」(ピーター・F・ドラッカー『断絶の時代』)。李嘉誠氏はその良き実践者であった。
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【追記】
【筆者コメント】
お客様各位
こんにちは、エリス・コンサルティングの立花です。
本日付けの「Wedge」に、私が寄稿した「香港大富豪の『中国撤退』がついに終盤戦へ 経営の王者・李嘉誠氏の脱出録」(http://wedge.ismedia.jp/articles/-/15797)が掲載されました。日本国内外で大きな反響をいただき、同サイトではただいま閲覧ランキング1位となっております(日本時間4月2日13時現在)。
ここのところ、外資中国撤退のニュースが相次いでいます。これは決してすべての企業に同一の経営判断を求めるものではありません。各自の事情を勘案して適正な判断を行うことが大切です。上記の記事には書いていませんが、中国に残るべき企業は残ったほうがいい、というのも当然のことです。
ただ中国の経営環境が大変厳しいものであることに変わりはありません。米中貿易戦争だけでなく、従来のコスト高をはじめとする問題の数々が横たわっています。さらに日本人駐在員の引き揚げに伴ういわゆる「現地化」リスクがむしろ拡大しています。これらに対応する体制はできているのか、今一度緻密な点検が必要でしょう。
難関を乗り越えるべく、一緒に頑張ってまいりましょう。
エリス・コンサルティング代表 立花 聡