時代の試練、民主主義による易姓革命はどこへ行く

 連日、トランプ氏の話。今日もその続き。いやいや、日本人がこれだけ注目する米大統領選も珍しい。何よりも日米安保の問題が大きいからだ。

 目先にはまず明日(5月9日)のフィリピン大統領選だ。トランプ氏のフィリピン版とされるドゥテルテ氏は暴言連発しつつも、トップを走っている。昨日、マニラ在住の友人に情況を尋ねると、「やはりドゥテルテ氏は、いわゆる非知識層に絶大な人気がある。これからのフィリピンはどうなるのだろうか」と嘆いていた。

 民主主義制度のもとで知識層だろうと非知識層だろうと、1票の重みは同じだ。学歴や理性や知性の度合いで、1.5票にならなければ、0.5票にもならない。1票は1票だ。たとえどんなチンピラが選ばれようと、それは民主主義国家のトップになるのだ。民主主義の選別基準は、知識の有無や多寡ではなく、票数という数である。不合理性があっても、民主主義そのものの否定にはならない。

 数での勝負といえば、独裁王朝の民衆の蜂起や暴動を連想する。暴力革命の末は、単純明快な富の再分配である。だが、資本主義・民主主義制度のもとで革命的な富の再分配ができないから、その代わりに法制度の変更しかない。それで恐ろしい混乱が連動的に起るだろう。事後の修復も容易ではない。

 民主主義による易姓革命ほど怖いものがない。時代の試練だ。

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