<雑論>日本人若者の劣化 / 中国出張感想 / マネージャーは不要になる / 戦死より餓死 / 「今日も一日頑張りましょう」

● 日本人若者の劣化

 青年交流、中国政府系訪日代表団の体験談(YouTube)ーー。

 日本側から送られた日本人若者の素質、とりわけ表現力の低さが際立った。

 なかには大学4年間、中国語専攻だったにもかかわらず、簡単な会話すらできない者がいた。英語に切り替えても意思疎通は困難で、では日本語でと提案し、代表団の通訳を介することにした。ところが、日本語ですら要領を得ない。

 私が繰り返し述べてきたように、外国語の習得以前に、日本人はまず日本語で正確に表現する力を身につけるべきである。言語は思考の表現であり、基礎体力である思考力が欠如すれば、言語力も必ず行き詰まる。これは何も中国政府代表団のプロパガンダではなく、私の所見と完全に一致する事実である。

 この中国人論客がこの問題を日本の「ゆとり教育」の弊害として片づけようとするが、それは枝葉末節にすぎない。根本的な原因は、日本社会全体が個人レベルでの主体的思考と表現を抑制してきた構造にある。教育現場、企業文化、地域共同体に至るまで、「波風を立てない」ことが美徳とされる環境が、若者から思考の筋肉を奪ってきたのである。

 そういう意味で、日本は中国を凌駕する全体主義的統制国家である。中国では確かに「言論の自由」が制限されているが、「思考の自由」までは奪われていない。議論の場や人間関係の中で、思索と意見形成は日常的に行われている。

 一方、日本では「言論の自由」が法的に保障されているにもかかわらず、社会的規範と同調圧力によって「思考の自由」が窒息させられている。これにより、日本人は表現の技術以前に、そもそも自らの考えを形成する基礎能力を失っている。

 結果として、「思考の自由」を生かす有能な中国人の絶対数は日本人をはるかに上回り、中国はその力で高速に前進している。日本がこの構造を放置する限り、国際的な人的競争力で追随することは不可能である。

 日本人の思考力の薄弱さを指摘してきたが、さらにメスを入れる。

 民主主義は高度な思考力を持つ国民という基盤の上に成り立つ制度である。日本人と民主主義の親和性は極めて低く、日本人大衆のほとんどは政策や国益についての議論すらできない。にもかかわらず投票権を行使し、その結果として政治家の品質は国民の素質を映し出す。民主主義の制度に自己修正機能が働かない以上、日本の民主主義は構造的に絶望的であり、これは宿命である。

 よって、日本社会は部分的な修正や化粧直しでは立ち直らない。総崩壊こそが唯一の道であり、その先に秩序の再建がある。病巣を温存する限り、未来はない。

● 中国出張感想

 中国経済は、「失われる〇十年」に転落するのか、それとも「調整局面」にあるだけなのか、というテーマを抱えて先週の中国視察を実施した。仮説的な結論が出た――。

 短期的な痛みや混乱を伴っても「構造転換」を優先しようとする中国政府の強い意志が見えた。

① 不動産救済を避ける理由
 これまで中国経済を牽引してきた不動産は、投機過熱と地方政府財政の依存を招き、典型的な「内巻」の温床となった。政府は救済ではなく敢えてバブルを潰す方向を取り、資源を不動産から製造業・ハイテク分野へ移そうとしているのである。

② AI投資との連動
 不動産・建設から人材や資金を引き剥がし、AIや新エネルギーなど戦略産業に振り向けることは、単なる産業シフトではなく、「内巻き型成長」から「イノベーション主導型成長」への転換を意味する。

③ 骨太な構造転換の意識
 短期的には失業・デフレ圧力・地方政府財政悪化などリスクが高まるが、長期的には産業競争力を高め、米欧との技術覇権争いに備える「強力成長の土台」を築く意図が読み取れる。

 言い換えれば、中国は「住宅で食べ、雇用を守る」従来型安定策を捨て、あえて痛みを伴う改革=産業淘汰と新産業育成を進めることで、次の成長パラダイムを狙っている。

 この流れで「AI投資」や「反内巻政策」を読み解くと、単なる景気対策ではなく「戦略的再編」という全体像が見えてくる。次の舞台における中国の復活は、どんなものか、恐れておいたほうがいい。

 一方では、中国と比べて日本に強烈な転落感を抱かされた。

 20年ごとに日本は転落していく。
 1980年代、プラザ合意で第一次転落→製造業受難。
 2000年代、IT情報革命で第二次転落→サービス業受難。
 2020年代、AI世紀展開で第三次転落→知的労働者受難。
 そして、2040年代の第四次転落は、AI+ロボティクス+バイオ融合社会における「人間存在そのものの価値」の転換。

 日本は、基本的にベーシックインカム制度の貧困福祉国家になると私は見ている。「貧困」とはいうが、今の日本人は「貧」であっても、まだ「困」に至っていない。今後の15年で、日本人は「困」を実感するようになる。「困」の証とは?日本人はある日に気づいたら、「嫌中」も「反中」もできなくなっている、その余裕すらなくなっていたら、それは「困」である。

● マネージャーは不要になる

 なぜマネージャーは不要になるのか。従来、マネージャーは組織の中で「情報処理の中間層」として機能してきた。具体的には、進捗管理(タスクやスケジュールのコントロール)、報告・連絡・承認といった情報の中継ぎ、さらに評価・査定の執行といった役割である。これらは一見、不可欠な調整機能のように見えるが、実際には情報の流れを一段階遅らせる「摩擦」として作用することも多かった。

 ところがAIの導入によって状況は一変する。AIはリアルタイムで進捗を可視化し、ボトルネックを即座に特定し、客観的かつ一貫した基準で評価することができる。これまでマネージャーが担ってきた調整・管理機能は、より速く、正確で、バイアスの少ない形でAIに代替されていく。結果として、管理のためだけに存在する「中間層」としてのマネージャーは、その存在意義を大幅に失うことになる。

 では何が残るのか。AI時代に不可欠となるのは二つの役割である。ひとつは、全体の方向を示し、理念や戦略を打ち立てる「リーダー(経営者層)」であり、もうひとつは、創造性や高度専門性によって付加価値を生み出す「タレント(実務層)」である。その間に位置する「管理専業職」は、急速に希少化し、場合によっては完全に消滅する可能性すらある。

 さらにボトムには、将来のリーダーや専門家候補としての「選抜待機層」をプールしておく必要がある。言い換えれば、組織は次第に「リーダー」「専門家」「待機層」という三層構造に収斂し、中間に位置していたマネージャー的領域はAIに吸収されていくのである。

● 戦死より餓死

 憲法9条をめぐる論争は、もはや無意味である。なぜなら、日本は「戦争を放棄する国」ではなく、そもそも「戦争ができない国」だからだ。ここにあるのは主観的な「しない」という意思ではなく、客観的な「できない」という現実である。

 それはまるで「もし1億円が当たったら、絶対にパチンコには使わない」と誓うに等しい。そもそも当選しない以上、その誓い自体が虚しいからだ。

 経済の実態を見よ。日本は対中依存を不可逆的に深めており、戦争になれば、敵弾で倒れるのではなく、補給が途絶え飢餓で倒れるだろう。銃弾よりも物流が、日本にとって致命的な戦略資源なのである。戦死より餓死。

● 「今日も一日頑張りましょう」

 日本社会の職場に響き渡る定番の呪文――「今日も一日頑張りましょう」。これは、まさに社畜召喚の合言葉である。ならば私は、逆呪文を提唱する。「今日は一日リラックスしましょう」と。実は私のほとんどのイノベーション的なアイデアは、リラックスの間に生まれたのである。

 「頑張りましょう」という言葉の中身はゼロだが、「リラックスしましょう」には意味がある。人間の集中力には限界があり、成果は休養とリズムから生まれる。ところが日本企業は、成果ではなく「頑張っている姿勢」だけを評価する。だからこそ、社員は生産性を捨ててでも「頑張り顔」を演じ続ける。滑稽というほかない。

 要するに、「今日も一日頑張りましょう」と唱える会社はゾンビ工場だ。そこで「今日は一日リラックスしましょう」と言い放つことは、ゾンビの群れの中で「俺は生きた人間だ」と叫ぶ行為に等しい。

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