マルクス・毛沢東と「洗脳された」私、そして帝王学という「悪」

● マルクス・毛沢東と「洗脳された」私

 私は長く中国の大学院に留学し、3つも学位を取っている。これに対して、「立花さんは中国でマルクス主義や毛沢東思想に洗脳されたのではないか」と口にする者がいる。

 しかし、そうした言説に接するたびに思い出すのは、留学中に起きたある皮肉な出来事である。私は当時、開講されていた「マルクス主義・毛沢東思想・鄧小平理論」という講義に強い関心を抱き、正規に履修登録を申し込んだ。ところが、大学側から断られた――。「その授業は中国人学生専用であり、外国人は対象としていない」と。

 本気で学びたいと願った私に対して、門は閉ざされていた。洗脳どころか、思想の公式的教育へのアクセスすら拒まれたのである。私はそのとき、失望と同時に、思想とは何か、学びとは何かを深く考えさせられた。結局私は、マルクスや毛沢東、そして鄧小平の理論を独学で読むことになった。そこには、どこからも押し付けられることのない、完全に自発的な思索の営みがあった。

 それに比べて、私に「洗脳された」とレッテルを貼る者たちは、ほとんど例外なく、マルクス主義を読んだこともない。彼らが嫌っているのは、思想そのものではなく、「中国」や「共産党」や「左翼」という曖昧な符号である。その敵意は、体系的な理解に基づく批判ではなく、単なる無知、あるいは商業的・政治的な動員によって作られた感情である。

 思想を語る者が、その思想を読まない。学んだ者が、語る資格を疑われる。こうした倒錯は、思想の軽視というより、知性の危機である。思想は同意のためではなく、理解のためにある。そして、理解とは時に拒絶する力よりも、深く受け止める勇気を要する。

 私がマルクス主義を学んだのは、信じるためではない。批判するためでさえない。世界をより深く理解し、人間の営みを歴史的に捉えるためである。そしてその営みは、教え込まれるものではなく、自ら獲得するものである。学ぶとは、そういうことなのだ。

 中国の教育を受けた人がマルクス主義や毛沢東思想に洗脳されていると思われがちだが、私の知っている中国人友人の中にそういう人は1人もいない。逆に、米国・西側のいわゆる民主主義に洗脳されている中国人はたくさんいる。子供をアメリカ留学に送り出し、米国グリーンカードの取得に熱中している中国人が数え切れないほどいる。

 洗脳に限って言えば、民主主義側の完勝である。それだけ欺瞞性が高いのである。何回も繰り返しているが、「中国=マルクス主義」でもなければ、「マルクス主義=共産主義」でもない。さらに中国共産党は共産主義に程遠い存在である。これらの概念を意図的に混同するのは、まさに西側民主主義の洗脳なのである。

 どうしてもいうなら、中国は国家資本主義である。しかも、日本よりははるかに「資本主義度」が高い。

● 帝王学という「悪」

 これだけではない。

 私が経営コンサルタントとして「帝王学」という言葉を口にしたとき、「封建制度の帝王になりたいのか」と真顔で返されたことがある。泣くに泣けないというのは、こうした瞬間である。

 これらはすべて、対象に触れる前に貼られたレッテルが、思考を停止させてしまう現象である。帝王学とは、支配の正当化理論ではなく、組織の頂点に立つ者が自らの責任と統治原理を内省するための思索体系である。マルクス主義もまた、共産主義の実現を目的とした一枚岩の政治思想ではなく、現実の社会構造を分析するための方法論である。学ぶとは、支持することではない。ましてや信奉することでもない。

 そもそも、たとえそこに「悪」とされる内容が含まれていたとしても、それを学ぶことは、「悪」を知り、分析し、批判するためである。理解なくして批判は成立せず、批判なき知識はただの無関心に堕する。仮に「悪を学ぶことは悪である」と断ずるならば、犯罪心理学や戦争史、全体主義の研究もすべて「犯罪や戦争を肯定する学問」として否定されねばならない。しかし、それはあまりにも幼稚な倒錯であり、学問の否定である。

 思想に触れるとは、その正否を決める前に、まず理解しようとする姿勢を持つことである。ところが、多くの人々は思想を“読む”ことなく、イメージによって語り、断じてしまう。帝王学という語に「封建」を、マルクスという名に「独裁」を投影し、その実体には目を向けようとしない。それは思想に対する拒絶ではなく、自分自身の思考能力に対する不信の現れである。

 思想を読むことは、むしろそれに対する「免疫」を育てる行為であり、洗脳の逆である。知とは防御であり、知とは攻撃でもある。それは、対話するために必要な最低限の武器であり、誤解と闘うための唯一の盾でもある。

 ゆえに、私は学ぶ。封建でも、共産でも、宗教でも、いかなるラベルが貼られようとも、人間が生きた思想である限り、それを学ばずに否定することは、最も浅く、最も傲慢な行為であるからだ。

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