「中国人はああだ、日本人はこうだ」

 「中国人はああだ、日本人はこうだ」(批判的な場面が多い)

 よく聞く話で、私自身もときどきこういう言い方する。で、そこで議論が白熱化し、ときどき水かけ論になる。それは、当事者自身(所属集団=自分)が指摘、批判されているのではないかという自己防衛本能が働いているからだ。イタリア人がどうのこうのといっても、日本人も中国人もアッハハで終わっちゃう。

 ポイントは二つ。

 まず、この「中国人」や「日本人」の範疇。おそらく発言者の観察する限りの普遍性で語っているのだろう。私も○○人がこうだという、ときにはちょっと批判的な発言をする。そのときは大体「但し書き」を付けている――。「私の限られた観察範囲内で確認した一種の多数的普遍性」というような前提だ。

 次に、「批判」の定義付け。これは、あくまでも発言者自身の「正論」や「正義」、信条、理念、あるいは価値観や美学的なものに基づく判断だろう。相対論的に考えれば、世の中普遍的価値観を除けば(普遍的価値観にさえ異論提起があるくらい)、「正論」や「正義」は無数にある。重要なのは、自分の確固たる信念なのである。

 たとえば、私は共産主義が大嫌いだ(これは本当のこと)。かといって、共産党員が嫌いなわけではない。さらにいうと、共産主義を信じていない、まともに理解していない、それをただ出世するためのツールにしている共産党員が大嫌いだ。逆に、本気で共産主義を信じ、その理論をよく理解し、実践している共産党員(原理主義者)が大好きだ。理念が違っても、一緒に酒は飲めると思う。私は来年の学習プログラムに、マルクス主義の勉強も入れている。

 日本人と中国人も、このような付き合いすれば、真の「日中友好」が生まれるのではないかと、妄想や幻想かもしれないが、そう考えている。