「辛い運転にはサヨナラだ。本日の面接とテスト運転、即採用。マレーシア法人の運転手が8月から勤務。50代の華人女性。学歴はないが、人柄がとにかく良い。信頼できる親友に紹介されただけに安心する。越境運転の出張もOKなので、シンガポール出張も気軽に行ける。良かった。何よりも、お酒を飲みながら後部座席で寛げる。天国のようだ」
――という私のSNS投稿に対して返ってきたのは、「お酒は飲みすぎると身体に悪いですよ」というコメント。この言葉に、私は単なる忠告以上の含意を感じ取らざるを得なかった。そもそも、「飲みすぎは身体に悪い」というのは周知の事実であり、もはや社会的常識の域にある。したがって、それをあえて口にする行為には、情報提供以外の意図――すなわち心理的動機が存在する。
そのような忠告には、まず道徳的優位の誇示という動機が読み取れる。
他者の行為に小さな警鐘を鳴らすことで、自らの節制ぶりや健康志向を間接的にアピールする構造である。また、「私は注意しましたよ」という免責の布石としての機能も併せ持つ。さらには、「私の価値観があなたにも適用されるべきだ」という同一化圧力すら背後に見え隠れする。
加えて、この忠告は、善意を装ったマウントである可能性も否定できない。すなわち、運転手付きという行動様式の変化に、何らかの羨望や反発を感じた者が、それを中和するために「健康」という別軸の価値を持ち出して、発言者自身の立場を補強しているのだ。これは、単なる忠告ではなく、社会的・経済的階層に対する心理的リアクションの一形態である。
他方、飲酒を制限することそのものが精神衛生上健康かどうかについても、表面的な道徳論では片づけられない。酒を「我慢」することが、自己の判断に基づいた能動的な選択であるならば、それは自律性の発露として、むしろ精神的健康に寄与する。
しかし、他者からの価値観の押しつけや、世間体への過剰適応によって節酒を強いられると、それは自己否定に近い抑圧となり、心理的な疲弊やフラストレーションを引き起こす。結局のところ、「飲みすぎは良くないですよ」という言葉は、内容の正しさとは別に、その文脈・タイミング・関係性においてこそ意味を持つ。
そして今回のように、私が自らの選択の正当性と利便性を語った場面で、それに対して投げかけられた忠告は、単なる健康への配慮とは異なる、微細な嫌味、もしくは立場の揺さぶりとして理解するほうが自然である。ゆえに、忠告とは常に、その背後にある発言者の動機と、受け手との関係性の力学を見極めなければならない。
善意に見える言葉ほど、その裏に潜む無意識の操作が鋭利であることも少なくない。酒は身体に悪いが、人間関係の毒にも薬にもなるのである。飲む量以上に、語る言葉の質にこそ、注意すべきであろう。





