● 石破氏はいつ辞めるのか?
最近、「石破氏はいつ辞めるのか」という予測記事があふれている。
しかし本来、先に問われるべきは「辞めるか、辞めないか」であって、「いつ辞めるか」はその次に来る問題である。にもかかわらず、報道や世間の関心は、あたかも辞任が確定しているかのような前提で動いている。この論点のすり替えは、何に由来するのか。どのような心理が働いているのか。
思えばこれは、「1億円が当たったらどう使うか」と真顔で議論する心理に似ている。現実には当たってもいないのに、その“仮定”を既定の事実のように扱い、使い道をめぐって空想を膨らませる。そこにあるのは、現実への問いではなく、仮定に酔いしれる快楽である。
政治の場においても同様に、辞任という現実が起きていない段階で、「いつか」に焦点を当てることによって、人々は自分が政治の“行方”を見通しているという錯覚を得ようとする。
こうした現象の根底には、政治を「現実の統治課題」としてではなく、「予測ゲーム」として消費する社会心理がある。報道はその欲望に応え、物語的演出で読者の関心を引こうとする。そして読者はその演出を受け入れ、あたかもドラマの次回予告を見るような感覚で、石破氏の進退を語る。
要するに、石破氏が「辞めるかどうか」ではなく、「いつ辞めるか」を論じてしまう社会には、政治を現実から切り離し、物語として楽しむ娯楽化の構造が潜んでいる。その構造は、政治的判断への主体的関与を奪い、「観客としての国民」を量産していくのである。
もちろん、石破氏が辞任する確率は、1億円が当たる確率よりはるかに高いのは事実である。ただしそれは「確率の量」の問題にすぎず、論点を「質の次元」で見誤ってはならない。
● これからの政治はこう変わる
これからは、両院で少数与党の自民党一本で法案や政策を通すことができない時代に突入する。必然的に、政策ごとの与野党横断的な協議と合意形成が政権運営の前提となり、従来の「党内調整→閣議決定→国会通過」という一元的な統治パターンは崩壊する。
この構造変化の中では、自民党党内の支持が政権基盤として持っていた絶対的な地位も大きく揺らぐことになる。たとえ党内で孤立しても、石破首相が維新、国民民主、あるいは一部立憲などの協力を個別政策ごとに得られれば、形式的な多数派形成によって政権は延命可能である。
すなわち、政権運営における「党内支持」の意味が相対化され、首相は「自民党をまとめる者」ではなく、「国会をまとめる者」へと変質せざるを得ない。しかも、このまとめ役は、石破氏以外にいない。
このように見れば、「石破おろし」は単なる政策批判ではなく、変化した統治構造を受け入れられない旧来派による断末魔的抵抗である。派閥を軸とした党内序列によって影響力を維持してきた旧安倍派や麻生派にとって、「党内支持が無力化される未来」とはすなわち自己消滅の予兆に他ならない。
したがって、石破氏が政権にとどまる唯一の道は、「与党多数による支配」から「政策多数による統治」へのパラダイム転換をいち早く体現し、与野党横断の合意形成を演出する新しい首相像を確立することにある。
ここから先は、党内掌握ではなく、政策単位で国会を動かす技術が問われる時代である。石破茂という政治家の生存戦略は、まさにこの転換をどこまで演出できるかにかかっている。





