<雑論>ほんとうの中国 / 日本人よりも日本的な外国人 / 愚民批判禁止区域 / 偽保守の欺瞞と戦後体制の寄生者 / 高市首相の「無害な戦場」 / 日本人の政策議論

● ほんとうの中国

 近藤大介氏の著書『ほんとうの中国』。帯文冒頭の一言、「日本人が知らない思考と行動原理」が日本人の無知を曝け出した。それは中国人の思考と行動原理についての無知ではなく、人間の本性についての無知である。

 帯文は「中国人はこうだ」と強調するが、冷静に考えれば、そこに並んでいるのは人間社会の普遍的現実にすぎない――。弱肉強食は資本主義の基本原理であり、性悪説はマキアヴェッリからホッブズに至るまで西洋思想の中核である。金が命と同等であることは、命をかけて稼ぐ労働者の姿を見れば自明である。

 したがって、この帯文は「中国人は人間である」と宣言しているに等しい。裏返せば、「日本人は人間ではない」とでも言いたいのか。

 愛社精神とは、日本人が「美徳」と信じ込んでいるに過ぎないが、実態は生涯賃金の保障、退職金と年金に裏打ちされた長期預金スキームである。人類史の奇習というより、むしろ日本人だけが大真面目に信奉した精神装飾を纏った金融商品であったのだ。言い換えれば、「お金は命と同等」そのものである。

 性善説だけは日本人の特有性質である。世界の現実は弱肉強食である。それを直視できない者ほど「人は本来善である」という物語に逃げ込む。他者の悪意を想定しないことは、備えを怠ることに直結する。つまり「性善説」とは、自己防衛能力を放棄するための思想装置である。

 会社においても、「社員は家族」「信じて任せれば応えてくれる」という幻想がはびこる。その結果、不正や裏切りに対応できず、制度崩壊を招く。性善説は弱者の思想である。性善説を信じる民族は、環境が温和で競争圧力が弱い場合には生き延びられる。しかし一度サバイバルの修羅場に投げ込まれれば、即座に淘汰される。

 日本人の「性善説依存体質」は、長期にわたり島国的安定に甘えた結果であり、グローバルな競争の中では致命的弱点である。世界に存在するのは、客観的強弱であるが、近藤氏は、それを主観的美醜・善悪に置き換えている。愚民向けのアヘンである。

● 日本人よりも日本的な外国人

 日本人よりも日本的――長期滞在や日本ゆかり外国人の文化的帰化現象近年、SNSや街中で和服を着る人々の多くが外国人であるという光景が目立つ。これは単なる観光的現象ではなく、長期滞在外国人が自らの「日本化」を強調する文化的行動である。彼らはなぜそこまで日本的であろうとするのか。その背景には、明確な動機が存在する。

 まず、所属の確認欲求である。長期滞在また日本ゆかりの外国人は、自国でも日本でも「完全な内部者」ではなくなる。彼らにとって、日本文化の実践は、社会への帰属を証明する行為となる。着物を着ること、茶道を学ぶこと、礼を重んじること――それらは単なる趣味ではなく、異文化社会で自らの存在を確立するための象徴的儀式である。

 次に、外部承認の演出である。日本社会は、外国人が日本文化を理解し、敬意を示す姿勢に寛容であり、むしろ称賛する傾向がある。そのため、外国人が「日本的であること」をアピールする行為は、社会的承認を得る戦略として極めて有効である。いわば、日本化は一種の社会的サバイバル技術なのである。

 それにしても、外見にとどまる符号的なアピールに止まり、彼・彼女たちの日本理解の深度を意味しない。度々、浅薄そのものだ。日本文化は象徴の体系、すなわち符号文化にすぎなくなった。和服も茶道も礼儀も、かつては生活のなかに自然に溶け込んだ身体技法であった。だが、いまやそれらは「日本的であること」を示すための記号でしかない。外国人がそれを身にまとい、日本人がそれを消費する。この構図は、文化の継承ではなく、文化の展示化である。

 本来、日本社会における「日本人らしさ」とは、和服などの外形的装飾によって示されるものではなかった。血統や育ち、言葉の抑揚、間の取り方、沈黙の使い方――そうした空気の読解と発信の作法こそが、社会的承認の根幹であった。つまり、日本人は日本的であろうと努力する必要がなかった。存在そのものが文化を体現していたのである。

 ところが、外国人にはその文脈がない。彼らは「空気を読む」という無形の符号体系を持たず、内部者としての承認を得る手段がない。だからこそ、視覚的・可視的な符号――すなわち和服や所作、形式美を借りて自らの日本化を示そうとする。それは日本文化を模倣しているのではなく、理解不能な「空気文化」に対抗する一種の翻訳行為である。

 皮肉なことに、こうした外国人の可視的日本化が進むほど、本来の日本的コミュニケーションの文法は急速に失われていく。形式が残り、意味が消える。文化はもはや内面の秩序ではなく、表層の演出に転化した。日本人が内側から文化を失い、外国人が外側から文化を演じる。こうして、日本は「生きた文化」から「演じられる文化」へと移行していくのである。

● 愚民批判禁止区域

 私は絶えず愚民を批判している。一方では、愚民を批判すべきでない局面もある。現代社会においては、特に大企業のほとんどが愚民層を市場の中心に据えている。彼らの消費欲求こそが「売れ筋」を形成し、経済の血流をつくっているからである。ゆえに、愚民性は文化的・政治的には批判の対象であっても、経済的・実務的には「顧客」である。

 その顧客を否定しては事業は成り立たない。むしろ、愚民的欲望を巧みに掬い上げ、商品に結晶させる企業群が巨大な利益を生み出している。そしてその企業こそが、我々コンサルタントにとっての顧客でもある。販売戦略や体制構築に関する案件で、愚民市場を相手にした実務支援を行い、売上を頂いている。

 ――失礼ながら、ここに矛盾がある。愚民を哲学的に批判しつつ、愚民に依存してビジネスが成り立つ。だがこれは矛盾ではなく現実である。弁護士は犯罪を悪と認めながらも、犯罪者のために無罪を主張し、刑の減軽を図る。その営みは一見矛盾しているように見える。だが実際には、これは矛盾ではなく、法制度の内における役割の要請である。弁護士がその職責を全うすることで、法の正統性と均衡が維持される。

 同じことが、愚民批判とビジネスの関係にも当てはまる。愚民を哲学的に批判することと、愚民を顧客として経済活動を成立させることは、一見矛盾である。しかし、これは矛盾ではなく二重の役割である。批判は理性の営みであり、顧客対応は経済の営みである。両者が分立してこそ、社会の全体は均衡する。

 ゆえに、愚民を批判しながら愚民を糧にすることは、弁護士が犯罪者を弁護するのと同じく、職分の必然である。矛盾ではなく宿命である。

● 偽保守の欺瞞と戦後体制の寄生者

 保守とは、本来「変わらないものを見極め、変えてはならぬものを守る」姿勢である。そこには超越的秩序への畏怖と、人間の限界を知る謙虚さが含まれる。戦前の天皇制はその体現であった。天皇を「現人神」とし、正統性を天に根拠づけたその構造は、少なくとも人間の欲望を超える秩序を意識させた。

 ところが戦後の保守右翼はどうか。彼らは戦争責任を曖昧にし、靖国の英霊を讃える。ならば筋を通すなら、戦後民主主義そのものに反旗を翻し、天皇制復帰を訴えるべきである。だがそれをしない。なぜか。戦後憲法体制の庇護の下、米国の傘の下で繁栄を享受し、民主主義の器に安住してきたからである。

 その結果、日の丸を掲げ、君が代を歌い、靖国で合掌して保守を装う「偽保守・似非保守」が跋扈する。彼らは象徴や儀礼を飾り立てることで保守を演じているにすぎない。思想的な覚悟もなく、戦後体制に寄生する従属者に過ぎないのだ。

 では、なぜこうした似非保守が大衆に受け入れられるのか。それは、大衆にとって分かりやすく、耳障りがよく、負担を強いられないからである。思想の根底にあるべき「自己否定と超克」や「変えてはならぬものを守る覚悟」は重く、愚民には耐えがたい。代わりに、日の丸や君が代といったシンボルを消費し、靖国での合掌を「安心の儀式」として味わうほうが心地よい。つまり、似非保守は愚民心理にとって最も手軽な愛国の代用品なのである。

 本来、保守を名乗るならば、民主主義の衆愚に迎合することなく、戦後リベラリズムに抗し、天皇制復帰を掲げるべきである。そこまでの覚悟を欠いた似非保守に、保守を語る資格はない。靖国の合掌も、日の丸の掲揚も、君が代の斉唱も、その覚悟を伴わぬ限り、すべては空虚な茶番劇でしかない。

 結局のところ、戦後日本に蔓延するのは「体制に飼い慣らされた似非保守」である。彼らは本流保守ではなく、リベラリズムの器に収まった「体制内反逆者」にすぎない。その存在自体が、保守思想の衰退と堕落を証明しているのである。

● 高市首相の「無害な戦場」

 極右のスターとして登場した高市首相は、結局のところ「現実路線」の政治をやるしかない。思想ではなく、現実に縛られているからだ。彼女がどれほど勇ましい言葉を並べても、外交・経済・安全保障の現実は、理想の延長線上には存在しない。

 靖国参拝ゼロ回という実績を残せば、安倍師匠はあの世で泣くだろう。台湾有事も叫び声で終わるかもしれない。理想を語って現実を動かせなければ、それは政治ではなく、演説でしかない。

 問題はここからだ。保守右派の熱狂を背負って登場した彼女が、現実に飲み込まれ、右からも左からも信頼を失うだろう。そうなれば、残された道はただ一つ。――無害な戦場で戦うこと。つまり、誰からも実害を被らず、誰も真正面から批判できないテーマで、存在感を維持するしかない。

 「国旗損壊罪」の立法。国際の場での英語スピーチ。これらはすべて、安全圏でのパフォーマンスである。国旗を守ると言えば誰も反対できない。英語を話せば国際的に見える。だが、どちらも中身は薄い。リスクを取らず、拍手だけを狙う政治。

 こうして彼女は、「思想の高市」から「演出の高市」へと変質した。演出は誤魔化しではない。現実を直視できない政治家が生き残るための自己防衛装置である。だが、保守の熱狂とは麻薬のようなものだ。一度離れた支持は戻らない。高市首相が「無害な戦場」でどれほど戦っても、保守右派はやがて気づくだろう。

 そこにあるのは、信念の政治ではなく、観客の拍手を計算した演技だと。

● 日本人の政策議論

 日本人の政策議論は「道徳」から始まり「財源」で終わる。いや、正確には「財源」で終わらない。なぜなら、誰もそこまで考えないからだ。「教育は無償であるべき」「医療は平等であるべき」「子育て支援は拡充すべき」——すべき、すべき、すべき。

 だが、その「べき」は一体どこから金をひねり出すのか。財源は税金であり、税金は国民の財布である。国民が老い、働き手が減る国で「べき論」だけを叫ぶのは、もはや政治ではなく宗教である。

 問題は理念ではない。優先順位と、コスト意識の欠如だ。欲しいものをすべて国に求め、負担を語らぬ民衆と、票が欲しくて「財源は工夫する」と嘘をつく政治家。その共犯関係こそが、日本の衰退の真因である。

 愚民とは無知な民ではない。考えることを放棄した民のことである。自ら汗を流さず、国に泣きつき、天から福祉が降ると信じて疑わない。欲望は無限、財布は有限。その矛盾を直視せず、「政治が悪い」「富裕層が悪い」と呪詛を吐く。だが、彼らが神棚に祀る「国家」とは、結局、自分たちの税金で動く財布にすぎない。

 財源を語らぬ「べき論」は、倫理ではなく甘えの構造である。民主主義の病とは、愚民の数が多数派になることだ。投票権が知性を伴わぬとき、民意は知恵ではなく怠惰を選ぶ。やがて国家は、働く者を罰し、乞う者を褒める社会になる。愚民とは、国家の主人ではなく、依存の奴隷である。

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