桜が咲かないマレー半島には、桜子がいる

 「私は日本名をもってます。『さくらこ』、華語で『インツー(桜子)』といいます。マレー半島に日本人がやってきたとき、日本の桜に因んで父が付けてくれた名前です。これから私のこと、「Sakurako」と呼んでください」

 私がいまクアラルンプールで借りている家の家主のお母様が満面の笑みで挨拶してくる。中国ではありえないことだ。こう堂々と語っていられることは。「漢奸」や「売国奴」と後ろ指差されるか、罵られるのがオチだ。

 対日感情云々、特に戦争の一件、各国の在り方がそれぞれ異なっても良いと思う。侵略されたとか、欧米植民地から解放されたとか、あるいは別の捉え方、いろいろあっていいと思う。

 いろんな異なる立場や目線があって、アジアが一枚岩ではない以上、特定の国があたかも「アジア」を代表しているかのような発言はいかがなものか。これはもはや、右寄りや左寄りの問題ではない。そもそも、自分の立ち位置によって右も左も相対的なものである。

 多様化した国際社会の中では、唯一の正解を求める唯一の方法は暴力や戦争ほかない。それはやるべきではない。相互理解というのは、相手の意見の中身を認める必要がなく、相手の姿勢や意見の存在を尊重することである。

 「友好」なんて国益が相反するところではありえないことだ。そんな夢のような「正論」や「最善」を一刻も早く放棄し、たとえ「次善」であっても、より冷静で洗練された大人の付き合いが現実的ではないだろうか。それが日本の隣国にはできるのか。

 桜が咲かないマレー半島には、桜子がいる。東南アジアは、日本にとって現実的な新天地であろう。