進化と退化の相対論、日本社会の「緊張」の変質

 「日本は弥生式農耕が入ってきて以来、さまざまの時代を経、昭和三十年代の終りごろになってやっと飯が食える時代になった。日本人の最初の歴史的経験であり、その驚嘆すべき時代に成人して飢餓への恐怖をお伽話としか思えない世代がやっと育ったのである。いま国家的緊張はなく、社会が要求する倫理は厳格さを欠き、キリスト教国でないために神からの緊張もない。こういう泰平の民が、二千年目にやっとできあがったのである。目に力を失うというのはそういうことであり、人類が崇高な理想としている泰平というのはそういうものであり、泰平のありがたさとは、いわばそういう泰平という若者を社会が持つということかとも思われる」

 司馬遼太郎「人間の集団について」の一節である。執筆された70年代初頭の日本がそうだったのであれば、その後の40年はただひたすらその延長線上にあったとしか思えない。若者の目に力を失うだけでなく、大人の目にも力を失ってしまったのはその後の40年の進化であり、退化でもあった。

 進化とは、飯が食えるだけでなく、良い飯が食えるようになったことであり、退化とは、動物としてのサバイバル力、生き残る力が衰退したことだ。

 退化というのは、使用しない器官の機能の衰退現象を言うが、意識においても同様に言えるようだ。生物学的に、退化は必ずしもネガティブにのみ捉えているわけではない。退化は進化のある側面を構成するという考え方もある。例えば馬の進化過程では、平坦な草原を走るための適応として足の中指が発達し、その一方、それ以外の指は退化した。その結果、現生の馬は一本指である。つまり、進化があっての退化であって、退化があっての進化であるともいえよう。

 泰平の世が崇高な理想であって、それが実現したところで、人間のサバイバル力の退化が誘発される。これもこの原理で説明できるのではないかと思う。司馬遼太郎が指摘する「緊張」の喪失について善悪論で評するのは無意味であろう。いまの日本ではある意味で異質の「緊張」が普遍化している。飢餓への恐怖が失敗への恐怖に変わったのである。

コメント: 進化と退化の相対論、日本社会の「緊張」の変質

  1. 連続投稿になってしまいますが・・・。

    http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150119-00000023-mai-soci

    「市教委が昨年6月に実施した調査では、給食を「全部食べている」と答えたのは10・8%。これに対し、「ほとんど食べていない」29・0%▽「少しだけ食べている」18・2%▽「半分くらい食べている」26・2%で、給食を食べ残しているのは計73・4%に上った。」

    不思議ですね。格差社会だと言われながら、飢えている子供というのは少ないようです。もっとも、格差社会の下の人は、子供を作ることどころか、結婚すらできてないのかもしれません。

    1.  詳細を見ていないので、あまり勝手なことを言えませんが、それが事実であれば、少なくともこの統計調査では、「飢餓」という概念は見えませんね。あくまでもこの調査に限っての話ではありますが。

       仰る通り、子供を作ることも、結婚すらできない人もきっといることでしょう。

  2. 「動物としてのサバイバル力」と書かれていたので、誤解してしまいました。いわゆる弱肉強食かと。

    「人間としてのサバイバル力」ですね。そうであれば、「法律を守るだけでなく、モラルを守り、弱きを助け強きをくじく」といった強さでしょうか。

    1. 外部環境の如何を問わず、それに順応し、しかるべき自助努力によって生き残ること(さらに他者救助できればなお良し)。こんな感じでしょう、定義付け。動物的な本能も含まれていますが、必ずしも「弱肉強食」というものではなく、ただ「強者生存、弱者淘汰」という自然界のメカニズムの存在自体を確認すると(正当性の是認とか不当性の否定とかという主観的意図ではなく、客観的事実の存在を認めるということです)。

  3. サバイバル力と言えば、中国人のサバイバル力は凄い。人を押しのけ、押しのけ、前へ出るパワー。これには圧倒されます。見苦しいとも言えますが、サバイバル力の基本はここにあるようにも思えます。

    しかし、現在の日本社会はこのようなことは到底受け入れられない。法や規則でがんじがらめに縛った社会で、生きることが正しいとされ、それに慣れてしまっている。列車の中の携帯電話の騒々しさにすら耐えられないほどまでに。父の汗の匂いすら、「臭い、臭い」という世の中です。

    サバイバル力の正否はともかくとして、サバイバル力が育つかどうかは、このような社会の在り方と真っ向から対立するもののように思われますが、いかがでしょうか。

    1. 対立しません。人を押しのけずに前へ出られた人もたくさんいますよね。法や規則、道徳倫理を守るだけでなく、さらに原理原則を貫き、生き残ることこそが、真のサバイバルではないかと思います。たとえ悪法であっても、悪法もまた法なりで悪法のせいにせず、悪法を守りつつも前に出ていくことが、真のサバイバルです。サバイバルというのは、個の生き方であって、社会など外部を問題にせず、内向のパワーの養成です。劣悪な外部環境であればあるほど、高いサバイバル力が求められます。サバイバル力は社会の在り方とは関係ありません。逆に社会が悪いからこそ、サバイバルが必要だとさえ言えます。

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