慰安婦記念碑の建て方、泥沼戦よりも建設的な女性人権擁護

 米サンフランシスコ市は22日、市内に従軍慰安婦の記念碑を設置することを決めた。

 私は、日本を狙い撃ちにした、特定の政治的目的を有する慰安婦記念碑の設置に断固反対の立場である。ただ、世界範囲において広義的に戦争の犠牲となったすべての女性を記念するものであれば、これに賛成する。

 まず、今回の設置決定に対し一部指摘があるように、米国は日本や韓国の慰安婦問題に直接に関係のない第三者である。米国では慰安婦問題は一般的に「女性の人権問題」として捉えられている。それはまっとうな捉え方だ。であれば、世界史上、とりわけここ100年という近現代史上、戦争の犠牲となったすべての女性に対して記念碑を建てなければならない。

 この犠牲となった女性たちというのは、もはや慰安婦となった強制性の有無に関係なく、まさに一部のリベラル派が主張しているように強制事実の有無が問題ではない。たとえ金銭のために自らの意思で慰安婦になったとしても、それは悲しい歴史であることは何ら変わりもない。

 すでに強制連行を否定する事実が確認された以上、慰安婦の多様な背景や経緯の存在それ自体が一種の歴史事実になった。この事実を正視しなければならない。歴史はすべて検証できるものではない。過剰にディテールにこだわり、対立者同士がそれぞれ見ているアングルに拘り、泥沼戦を繰り広げることは決して平和的ではない。

 慰安婦とは何か。日中戦争や太平洋戦争、朝鮮戦争、ベトナム戦争及び韓米軍事合同訓練並びにアメリカ軍、連合国軍及び国連軍の駐留時などに、当時の戦地、訓練地、駐留アメリカ軍基地周辺の基地村などでも存在が報告されており、日本軍、韓国軍、アメリカ軍及び国連軍の軍人・軍属に対して、売春業を行っていたまたは行っている女性の総称として「慰安婦」という表現が使われているのだ。であれば、韓国軍や米軍ないし国連軍も加害者側である事実が明確であり、韓国に限って言えば被害者と加害者の二重身分を持ち合わせていることは否定できない。だからこそ、ここで誰がどうだったという泥沼戦よりも事実の本質に着目したい。

 それはつまり強制性の有無に関係なく、これらの女性のすべてが戦争の犠牲者であり、「慰安婦」そのものが一つの悲しい歴史である。これに異論を挟む余地はあるまい。アメリカで慰安婦問題が「女性の人権問題」として捉えられている理由も正しくそこにあったのだろう。

 慰安婦として戦争の犠牲者となったのは韓国人女性だけでなく、日本人女性も、ベトナム人女性も、フィリピン人女性も、もしやほかの国々の女性もいる。彼女たちはすべて戦争の犠牲者である。このようなことが二度とないよう、女性の人権を守ろうという正義のもとで、慰安婦記念碑の設置は大きな意義を有するだろう。

 日本自身もいつまでも犯罪者の自己弁護のような姿勢を見直すべきだ。「慰安婦記念碑を建てるか」に争点を置くのではなく、「どのような慰安婦記念碑を建てるか」で積極的に参加して行こうではないか。

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